ふすまを破った茶の湯体験

ふみ

 

上の写真、一休宗純の双幅を写したもので、右側が「諸悪莫作」、左は「衆善奉行」、大徳寺真珠庵の所蔵です。

下に写ってる岩波文庫は、奥付に「\200」と書いてありまして、マア、ずいぶん昔に購入した「天台小止観」ですが、今でも、読む上で問題ありません。

 

天台小止観は、その最初に「諸悪莫作衆善奉行」で始まる七仏通誡偈を載せてますが、イヤイヤ、「悪」とか「善」とか、もうそこから大問題を含むというか、だいたい仏説ってものは、はじめっから言語表現不可能なわけで、ウーン、困った・・・

 

小学校5年生がネ、茶の湯体験ってんで、「正座」してたんですけど、ガマン強い子だったんでしょうか、体験終了後に立ち上がった時、よろめいてフスマを破ったハプニングがありました。

「正座するように」強要してないどころか、「正座しなさい」みたいなことも言ってないんですけどね、彼は「正座しなきゃいけないものだ」って思い込んでたんでしょうかネ?

 

戦国時代に武将その他、社会的に高位だった人々が茶の湯を楽しんでた頃、正座なんかしてないわけで、だから私は、「茶の湯は正座で行う」なんて言わないし、正座を求めることもありません。

今日の記事は前回の続きで、同じことを繰り返し書くことにもなりますが、茶の湯では正座することが「いいことだ」って観念は誤りだと思う私です。

そして、小学5年生に「正座させた」ら、ソレ、「体罰」じゃありませんか?

だから「正座」は、ある場面では「ほめられる」ことになりますけど、別の場面では人を「苦しめる」ことになり、あるいは「罰を与える」、アノ、昭和の時代、またそれ以前は、学校なんかで「正座という罰」が広く行われてたように思うんですけど?

 

私ネ、「諸悪莫作」というなら、人に「正座させる」ことは、「悪いこと」になる場面って、多々あると思うんです、体罰として正座が悪用されたみたいに。

でも、親とか、あるいは学校の先生だったら、茶の湯体験では「正座するんですよ」って、もちろんそれ、「善いことを勧めてる」感覚だと思うんですが、アノ、茶の湯体験で「正座するように」小学生に求めたとしても、社会一般の感覚ではそれ当然、あたりまえ、もっと言えば「善」だってことかなあと思います・・・

 

ですからですから、ものごとは複雑怪奇、善悪とか評価ってのも「入り乱れてる」のが実態だし、だから世の中の現実ってのは、「単純明快」の正反対で、善いようにと思って正座を勧めたら、苦痛体験だけが残って「決然と」茶の湯が嫌いになったりとか、そうネェ、「人生いろいろ」って、昔、島倉千代子が唄ってましたけど、こんなに「楽しい」茶の湯なのに、バカバカしくも正座にこだわって「茶の湯嫌い人間」を生み出すようなら、私は涙、涙、涙・・・。

続きは次回に。

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