茶の湯は結局「私の」茶の湯

上はTV画面を撮影したもので、字幕は父親が娘の作品に対する発言「俺は好きだぞ 個性的だ」。
いいんじゃないですか、父親の感想、そして「彼自身の」思い。
アノ、人は「誰の」思いを生きるんですか? 「自分の」思いですか、それとも自分を犠牲にして、誰か「他人の」思いを実現するため、相手の意のままに動く操り人形として生きるんですか?
こんなこと書きますの、3月15日のブログに「パパの思いどおり」の人形として生きる少女のことを書いたからでして、まあ、彼女のパパがほんとに「子の意思」を許さない人なのかどうかわかんない・・・ンですけど、「威圧強権パパだと感じました」ってことで。
さて、誰でも茶の湯を行う場合、「その人なりの」茶の湯しかできない・・・っていうか、だからこそおもしろいんだってことを言いたいわけでして、個性を殺して一定の型にハメなきゃなんないって考えとは正反対です。アノ、その人その人によって「異なる味わい」の個性的な茶の湯ができあがる・・・ってとこが、ものすごく魅力的だと思う私です。
そして、茶の湯は仏道とも関わりが深く、特に禅と結びついてますけどネ、私は昔から一遍上人が好きで、今も好きで、禅であれ一遍上人の仏道であれ、「表面的に異なるように見える」だけで本質は同じ、3月16日には道元禅師に関してちょっと書きましたけど、彼は大徳寺など茶の湯と深く関わった禅の系譜とは違いますけど、禅という点では同じ、マアそんなことよりも、「仏法」としては南伝であれ北伝であれ、さらにはチベットだろうが中国だろうが日本だろうが、また奈良、平安、鎌倉など時代の別なく、根源は同じですからネ、枝葉末節は気にしないし、全くこだわらないのが私です。
それで、突然ですが一遍上人のハプニングについて簡略に書きますと、念仏札を配りながら熊野に向かう途次、一人の僧に出会うってことがあったんです。で、上人は、「一念の信をおこして南無阿弥陀仏ととなへてこのふだをうけ給べし」・・・ってなことを言って、念仏札を手渡そうとしたんですけど、その僧、「いま一念の信心おこり侍らず、うけば妄語なるべし」ってなことで、断られちゃったんですヨね。
・・・イヤァ、「受けば妄語なるべし」の一言、そのワンシーンに、私は当事者じゃありません、一遍上人じゃありませんけど、この世界が吹き飛ぶほどの強烈なショックを受けたことでした。
・・・と書いても、その衝撃の強烈さを文章表現できませんで、自分が粉砕された感覚、それって心の最深部から発してますからネ、「我がことながら」激しく波立つ自分の心が理解不能で、ただただ打ちひしがれったってことで、アノ、一遍聖絵の一部分を見ただけでしたのに・・・
とは言っても、なぜ心にショックだったのか、今はよくわかりますけど、マア、そういう話、追い追いと少しずつですネ。
ともあれ、相手の人は「自分ではない」わけですから、相手の気持ちがわからないとか、自分の気持ちとはまるで違う・・・なんてこと、当然も当然だし、それでちっとも悪いことなんかありませんし、それよりもですね、「自分がとんでもない思い違いをしてた」ってこと、大いにあることだし、それに気づくことができるってことは、ものすごく自分自身の飛躍になりますね。