茶の湯は「相手が」心地良いように

上はTV画面を撮影したもので、字幕には「生徒たちも原稿どおりの発言が求められます」と書いてあります。
さて、昔、ある職場に仲良し三人組がいまして、あるグループは「お料理トリオ」、別のグループは「お作法トリオ」と呼ばれてたんですが、「お作法トリオ」って、茶道三人組だったんです。
さて、「作法」ってのは、「相手を尊重し」、「相手が心地良くいられる」ようにするためには、実際の行為、行動をどうすればよいかってことの追求から生まれてきた「型」みたいなものかなあと思います。
そうであるなら、その「型」には「心がこもってる」ことが必須で、「相手が心地良いように」という気持ちが欠落していたら、どれほど「型どおり」に行っても無意味なわけです。
もっと言えば、「型の強要」、つまり、心を伴わない「形式」だけを押し付けるなら、それはかえって人をないがしろにし、さらに、傷つけることにもなるかなあと思います。
さて、茶の湯では亭主が客に対して心配りをするのが当然、そして、客が亭主に対して心配りをするのも当然です。
懐石でも、亭主が客に心を配るように、客も亭主に心を配ります。
・・・で、次が問題なんですけど、昔、中国に行った時、地方小邑の料理店で夕食しまして、その時に見た宴席の光景です。
宴はもう終わりに近く、床も卓上も、牛・豚・鶏などの骨、甲殻類や貝の殻、果物の種とか、料理から取り除いたもの、口から吐き出したものを問わず、盛大に散乱「させてる」のを実見しました。アノ、「わざと」散らしまくってるんだって聞きましたけど、マァ、入郷随郷、頭から批判などせず、そうする気持ちをわかろうとする態度って、大切だと思いました。そして、卓上には「食べ残し」の料理があるんですけど、でもそれで「お開き」のようでしたね。
ところで、茶の湯の懐石では、上記、中国の宴席とは全く様子が異なりまして、まるで正反対の異世界が展開されます。
そうですネェ、客一同が料理を取り終えた器などは、きれいに「拭き清める」んです。また、自分の膳にある食器も「拭き清める」んです。拭くっていうよりも、「清める」くらいの心境で行いますね、私の場合は・・・
そして、拭き清めた器などは給仕口、あるいは茶道口まで運び、順序良く並べてお返ししますし、懐石の最後には、客一人一人の膳をご亭主が下げにくるのを待つことになるんですけど、くどく言ってすみません、拭き清めておきます、食器類から盃、箸まで、膳に載ってるものを全部です。
イヤァ全く、中国で見た宴席とはまるで異なる異世界の光景ですけど、でもネ、中国では「招いてくれた主人」が心地良いように配慮して客がそんなふうにしてるんだし、懐石では、お招き下さったご亭主が心地良いように配慮して客がそんなふうにしてるわけでして、その違いは「何に配慮するのか」ってことが異なるからだと思うことで、次回に続けたいと思います。