茶の湯 ― 吸い茶という様式

上の写真は下野新聞デジタルニュースの画面を撮影したもので、去年(2025年)1月に開かれた初釜の様子です。画面に写ってないんですが、「5年ぶりに『回し飲み』再開」と、見出しにあります。
さて、4月21日のブログにですね、「次回は『一つの碗から飲む』って、いつのころから、どういういきさつで始まったのか、ちょこっとだけ書いてみようかと思いますが、『一碗で回し飲み』するなんて、初めからそうしてたわけじゃないんだから、正座を強要したり、飲み回しを強要するなんてのは、茶の道に反すると私は思いますので、また次回に」・・・って書きました。
それなのに、「一つの碗から飲む」ってことについて、その後も書くに至らず、今日になってしまいました。なぜ書けなかったかといいますと、書くためには「前置き」が必要だったからでして、その「前置き」が、前回までの文章です。
それで今回から、「一つの碗から飲む」ことについて書きたいんですが、次のような話もありまして、豊臣秀長の茶頭だった曲音(養花曲庵)が、天正14年、郡山城下の屋敷に居た折、屋敷に秀長を迎え、山上宗二がスイ茶を差し上げた記録があるってんですけど、自分でも調べて確認したわけではありません。「スイ茶」というのは、一つの碗に人数分の濃茶を練り、全員で頂くことです。
また、それ以前の永禄6年、松永久秀が多聞山城で濃茶をふるまった時、天目茶碗で濃茶を回し飲みしたんじゃないかと推測する向きもあるようですが、それについても私はよくわかりません。
さて、濃茶を一つの碗から皆でいただくことを、秀吉の時代は「吸い茶」と言ってたようで、どういう経緯で広まったのか、私は調べてませんから、明治大学の宮内壽美さんの論文から、すみませんが勝手にその一部を引用させていただきます。
**************
利休の時代、茶は「各服だて」といわれ一服ずつ茶を点てていた。しかし、利休の晩年には「吸い茶」と呼ばれるまわし飲みの作法が、茶会記に頻繁に出てくるようになる。
まわし飲みは利休の時代に一般化し、利休によって点前作法として確立されたことは確かだと考えられている。一説によれば、濃茶の点前は複雑で時間がかかるため、時間の短縮のために利休はまわしの飲みを考案したともいわれている。
武士や民族的な酒の儀礼などにみられる、もともと中世の人びとの生活に根ざしたまわし飲みという共同飲食の儀礼が、一碗の茶をまわし飲むことで同盟を結び、親しみを深める目的で茶の作法に取り入れられたと考えられる。
このまわし飲みという行為は、杯のやりとりも、キリスト教における聖餐式のパンとぶどう酒も、人類共通の共同飲食の儀礼として考えられる。利休の時代はまだ戦乱の時代である、毒見なしに主客が同じ茶碗から茶を飲むということは一層一体感が強まったと考えられる。
こうした利休によって体系化されたわび茶とそれを支える意識は、定型化され今日の茶道の中の点前作法として継承され発展してきた。そのため、わび茶は、現代茶道の源流であると言われているのである。
**************
さて、豊臣秀吉はその「吸い茶」を好み、一座の人々に吸い茶をさせたようですから、そのことはまた次回に。