心に余裕があってできる茶の湯

ふみ

 

上の写真は1996年に放送されたテレビ番組のワンシーンですが、右側に写ってるのが上田家の十六代で、上田宗箇流のお家元、左側はインタビューしてる谷村志穂さんです。

さて、上田家十六代のお生まれは、現在の地名で言えば広島市安佐南区上安、昭和20年6月20日ですけど、広島に原爆が投下されたのは8月6日でした。

 

ここで、前回のブログに書いた国民義勇隊のことですけど、昭和20年7月末に、今の安佐南区に含まれる一部地域(当時の川内村)の国民義勇隊に指令が出されまして、8月6日朝のことだけピックアップしますと、500人ほどが現在の平和記念公園付近での建物疎開作業に動員され、最初に到着して作業を始めた200人ほどは原爆で亡くなり、作業に向かう途中だった後続の人々も被爆したそうです。その作業というのは、建物を取り壊し、防火帯をつくって空襲の被害に備えようというものでした。

で、十六代お家元の御父君は、当時の安村(今は安佐南区の一部)にあった邸宅に居ましたけど、原爆投下後に、現在平和記念公園になってる場所にあった住宅兼事務所に家族を捜しに行き、被曝したことが原因で、数年後、若くして逝去されたそうです。

 

次に、茶の湯としての上田宗箇流ですが、「茶事預」と呼ばれた茶の湯師範(上田家家臣)によって伝えられてきた流儀を、上田家の十五代が当主の元に戻したのが昭和三十年、その後、家元を上田家十六代が継承し、現在の家元は十七代となっています。

 

さて、テレビ番組に戻りますが、十六代は母の実家である上田家を継承します。広島市の古江にありまして、熱線と爆風の被害は爆心地より少ないけど、残留放射線は多かった地域のようですね。

谷村志穂さんの問いに答え、広島市の戦後について上田家十六代は、「街の復興、復興で、文化がどうのこうのというふうな時代じゃないですよね」 ・・・ って、イヤアその言葉、全くそのとおりだったろうと思いました。そして、廃墟と化した広島の復興に専念しなければならなかった時代、養親である上田家十五代は「静かに茶の湯を守った」 ・・・ みたいなことを言ってまして、マア、茶の湯の本質的な部分を守ることって、そうなんですねえ、声高に喧伝、主張すれば効果的なものとは全く異なる性質を持つって、ホント、私はそう思います。

 

そして茶の湯は、「余裕があって」はじめてできると思うことでして、焦眉の課題に直面する社会状況においては、マア、したくても無理でしょうね。

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