茶の湯氷河期

ふみ

上記写真は「新島八重の茶事記」という本で、その上に花を載せて撮影しました。

 

さて、「就職氷河期」という言葉があるそうで、2023年春に大学を卒業した人の就職率は55.1%とか、書いてあるのを読みましたが、茶の湯で言いましたらね、一番苦しかったのは明治に入ってからの頃かなあと、私としては思います。

マア、文明開化とか欧化という言葉もありまして、日本文化が衰微した時代には、茶の湯もまた勢いが衰えましたから、私は「茶の湯氷河期」と表現してみました。

 

明治になりますと武士は職を失い、収入の道が途絶えましたけど、茶の湯で主君に仕えていた赤沢閑甫もまた生計を立てる道を失い、生活を成り立たせること自体、困難だったことでしょう。

彼は仕えていた殿様から茶室を賜わりましたが、住居は六畳一間の粗末な家で、それでも茶会を催したのだからすごいと思います。

 

この時代、茶の宗匠にとっても困難極まる時代で、新島八重はそういう時期に茶の湯の道に入りまして、明治27年5月に茶の宗匠から入門を認められ、翌明治28年8月に「茶通箱」と「唐物点」の許状をいただいたというのですから、ホント、私はびっくりしました。

 

その新島八重ですが、本には、『ふだんの家元一家の食事も度を越した質素さで、見る者が皆、同情したものだという。仙台から稽古に通っていた伊藤宗幾は、八重と相談のうえ稽古の際に持参する弁当のおかずを多めに用意して』と書いてありまして、「おかずを多く用意した」理由ですが、それは、おかずを宗匠に分けてさしあげるためだったということです。


とにかく、『家元が栄養失調を心配されるほど日頃の食生活が貧窮していたのだった』と書いてありますからね、それを読みますと、貧困な赤沢閑甫ですけど、それでも茶会を行い、シジミ汁や薩摩いもを懐石で供したことは、それはそれでたいしたおもてなしだったと感じられることです。

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