茶の湯 ― 敬愛を表現する手法

ふみ

 

上の写真は中国歴史ドラマのワンシーンで、左側が清国第三代(数え方によっては第五代)の雍正帝、右側は宮女ですが、衣装が常と違ってるのは、葬儀の服装だからです。

で、雍正帝が自分の箸で宮女に料理を取ってやる場面なんですけど、フィクションだからそんなシーンができるんであって、皇帝が誰かに料理を取ってあげるなんて、現実にはありえない話ですネ。

次に下の写真ですが、中国現代ドラマのワンシーンで、右側の男性が、自分の箸で女性に料理を取ってあげる場面でして、これはもう、日常的に見られる光景でしょう。

 

三ッつ目の写真は中国ドラマ「テレサ・テン」のワンシーン、左端に写ってる子ども時代の鄧麗君が、友達だった「小苗」の母親に、自分の箸で料理を取ってあげるんですけど、小苗は台風時の洪水で溺れ、亡くなっちゃったんです。だから「小苗の好物だよ 食べてあげて」ってセリフでして、私は涙しちゃいます。

 

それで、言葉を使って無理に表現するなら、大好きな気持ちだとか、親密に思ってる、喜んでもらいたい、楽しんで欲しい、慰めてあげたい、力になりたい、マアその他、どんなふうに表現したらいいかわかりませんが、結局のところ、相手に対する好感、好意がMaxってことだろうし、そんな時は、例えばおいしいのを食べて欲しいって気持ちにもなるだろうし、そういう気持ちを「態度で表現する」ってこともあるだろうし・・・って思いますね。

 

同じように、茶の湯で食事を差し上げる、菓子を差し上げる、お茶を差し上げる・・・なんて、みんなみんな、相手の人に対する好意の表現かなあと、私は思うんです。

それで、相手の人に対する好意を大っぴらに、堂々と「表現できる」のが茶の湯なんだって、私は茶の湯をそういう面から見ています。

アァ、言い換えれば、好意や敬愛を表現する手法として茶の湯があるって、心からそう思うことです。

茶の湯 ― いっしょに過ごすうれしさ

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上の写真はTV放送を撮影したもので、貴船神社における献茶の場面で、画面中央の男性が、神にささげる茶を奉持し、神前に進むシーンです。

画面右側の男性が神様に点茶したんですけど、アノ、稽古の場で茶を点て、同じ稽古仲間の人に供するような場合であってもですネ、茶を点てる時の気持ちは、例えば故人に供茶する場合と異ならないし、献茶については全くわからない私ですが、想像しますに、「目の前にいる人」にお茶を点てるのとは別の気持ちが必要とは思えない・・・ってことでして、アノ、現実に目の前にいる人に対しても、また故人や神に対してもですね、こんなこと言う私を怒らないで下さい、目の前にいる人も故人も神も「等しく尊い」んでありますから、それで、これは「個人的ブログ」ですからネ、自分の価値観を思いのままに書けるってとこがいいですね。

 

茶の湯は人を尊ぶってこと、アノそれ、「自分を大切にする」ってことと同じでして、もっと言えば、自分を大切にすることと他の人を大切にすることは「同じこと」でして、だから、他人の利益のために自分が犠牲になって滅私奉公しなきゃ・・・って心持ちでは茶の湯ができないし、また、相手は自分に奉仕して当然だって気持ちでも茶の湯ができないんであります。だいたい「尊大に振舞わなければいられない」惨めな心情を内蔵してるなら、融和を旨とする茶の湯なんか、できっこないですし、マァその反対に、自分は人から拒絶され、受け入れられないみたいな恐怖がデフォルト値になってる人もまた、茶の湯にはなじめないでしょう。

なぜなら、相手は「私といっしょに楽しいひと時を過ごしたい」って思いで誘ってくれるわけでして、相手の立場から言えば、「あの人といっしょに楽しいひと時を過ごしたい」ために、「お茶を差し上げたい」って理由をつけて私を招いてくれるわけですからね、まあ要するに、「その人といっしょに楽しく過ごしたい」って気持ちがあふれ出て、相手を誘う「理由付け」として「お茶しましょう」・・・ってわけだと思う私でして、例えて言えば、相手といっしょに過ごす時間を持ちたい若い男女がですね、どうしたら二人一緒に過ごすひと時を持てるかナアって思案するようなもので、マァ例えば私なら、隅田川の花火大会に行きましょうって誘うとか、私は関東なのでそんなことしか思い浮かばないんですけど、若い男女じゃなくても好意を持つ人といっしょに過ごす楽しい時間を求める時、隅田川の花火大会みたいなものとして、自宅にお招きして「お茶を差し上げる」ってことを考えたのかなあと想像することです。

 

アノ、茶の湯の場では、「会話が途切れない」なんてことは全く不要で、その反対にですね、何も話さない時間が長いですし、あるいはですね、「全く会話が無い」状態が進行する情況であっても、極端に言えば「ただその場にいるだけ」なのに、心が非常に満たされ、まあ、何と言いますか、安心してそこに居られると同時に、喜ばしい気持ちがあふれ出まして、そんなふうに人といっしょに過ごす至福の時間が持てる・・・ってのが茶の湯なんですね。

続きは次回に。

茶の湯 ― 一つの碗からいただく

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上の写真はTV放送を撮影したもので、エチオピア低地での映像なんですが、男が二人、大きな器から「二人一緒に」酒を飲んでます。

で、下の写真は同じくエチオピアなんですが、パソコン場面でして、同じ器から女が「二人一緒に」酒を飲んでます。

アノ、同じ器から「二人一緒に」飲むっていうのは、日本ではどうなんでしょう? 私は聞いたこと無いんですけど、「同じ器から二人一緒に飲む」ってこと、私個人としては「嫌な気持ちはしません」ってだけは言いたいです。アァ、いや、そうしたいって意味じゃありませんで、嫌がりませんってことでして、もちろん、親しみを感じる人じゃないと、そんなふうにはできませんけどね。

 

さて、今の私、パソコンが「停止する」のが恐怖でして、アノ、室温が上がりますと、私のパソコンは突然停止します。去年7月~9月は、ほとんどパソコンが使えませんでした。マア、今年の場合はまずモニターが切れました、つまり、モニターが映らなくなります。そうしますと、パソコン操作自体が不能になりますからネ、モウ、お手上げです。それで、まだ5月なのに、何日もブログが書けませんでしたけど、エアコンからの冷気があたるところにパソコンを置く一時しのぎの対策をしまして、そうすれば、短時間の稼働は可能かなあ? ・・・ と思いつつ、何日か過ぎてしまいました。

 

アノ、大きな器に酒を注ぎ、みんなで回し飲みをするっていうのは日本も古来から行われてまして、また、大きな盃を上位の人から下位の人に受け渡しつつ、みんなで酒をいただくことも普通だったと思うんでして、だから、「同じ盃で」酒をいただくことに関しては、社会的に「あたりまえ」って感覚だったのかなあと私は感じてまして、少なくとも昭和までの人間は、「他人が飲んだ盃で酒いただく」ことに違和感がなかったかなあと実感するんですけどネ。マア、各人が、個人的にはどう感じてたかってことは別としてですね。

それでまた、懐石の盃事では、一つの盃から皆がいただくってこと、茶の湯の場には残ってまして、私としては一番楽しい場面ですけどね。

 

話が脱線しましたけど、昔は、酒を大杯から飲み回しましたけど、「お茶を一碗から飲み回す」・・・ってのはネェ、戦国時代に始まったかと思いますが、今日はこれくらいにして、続きは次回に。

茶の湯 ― 懐石での箸の使い方など

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上記は今日放送の「あさイチ」の映像で、私は「風、薫る」というドラマを見てませんし、生田絵梨花さんを知らないンですが、今朝は彼女がゲストのようで、食事シーンの撮影に関する話、私は外出する直前だったんですが、たまたま居間のテレビで放映中でして、テレビにはごていねいに「和食のマナー」と題したパネルが映ってましたからネ、急遽撮影したのが上の写真です。

 

で、茶の湯の懐石でも椀の扱い、箸の使い方など、そのパネルといっしょで、もちろんそれ、日常の椀の持ち方、箸の使い方と変わるところはないんですけど、生田絵梨花さんからテレビ撮影の話を聞いてちょっと思ったんですが、パネルで紹介されてるような食事作法が広く一般的ってことじゃないみたいで、そうしますと、茶の湯が堅苦しいって嫌がられる向きがあるのも、そんなことも関係してるかなあ?・・・なんて、単なる想像ですけどね、いちいち箸の上げ下ろしまで細かい注意が必要なんてことだったら、茶の湯を避けたくなる気持ちも起こるかもしれないナアとか、思っちゃいましたけど、それ、「ふだんと違うことをしなきゃなんない」って情況の場合で、日常的にパネルのようにしてる人なら、楽しさ満点の懐石ですね。

 

それなのに、ソレナノニ・・・ですよ、別の人が飲んだ同じ茶碗で自分も飲まなくちゃいけないなんて聞いたら、野蛮、ヤバーンみたいな感じがして、敬遠どころじゃありません、あからさまに嫌忌を表明したくなる人だって、居るかもしれませんト言うより、居るだろうなァと思います。

マア、私も「避けたいやり方」ですからね、じゃあなぜそうなっちゃったの?・・・みたいな私見、あの、それ全く個人的な妄想でして、誰からも好まれ、喜ばれるやり方じゃないと思いましてね、そうなったの、ある人物の関与が強いと想像する私でして、一つの茶碗から何人かで飲む話は次回も。

茶の湯 ー 上下関係が強烈だから

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 映画「日々是好日」が封切られた時、さっそく私は見に行きましたが、その後、TVでも放映されました。そのTV映像が上の写真で、映画と違って字幕がありましてネ、「お正客がいらっしゃらないと 席が始まりませんので。」と、赤い矢印で示した「主催者側の人」が言ってます。イヤア、彼女、亭主役にも増して大役ですよね。

 

正客になって欲しいと懇願されてるのが、黒い矢印で示したご婦人で、結果的にはそのご婦人が正客を承諾し、隣に写ってる黄みが強い朱鷺色の着物を着た女性を次客に伴って、正客の座に着きます。

 

さて私は、このブログで大寄せ茶会のことをほとんど書いてきませんでしたが、第一の理由は、あんまり好みじゃないからでして、映画の「大寄せ」は「正客がいないと成り立たない」茶会でしたけどね、でも、大寄せ茶会には、「無料で誰でも参加できる」茶会、しかも、上生菓子付きってのまでありまして、良い点は茶の湯を全く知らなくても入れることですが、そういう茶会では正客なんてことは問題にもならないというか、イヤァ、困りました、どう言えばいいか、無理に言えば「茶会の客は絶対平等」というか、「平等とは何か」をはきちがえてる人も数多く客になるってことでして、とんでもない例えかもしれませんが、赤ちゃんであっても人間として平等なんだから、一人前の座席を与え、一人前の人間として饗応せよと要求してるようなものであって、イヤイヤ、赤ちゃんは赤ちゃんとして「心地良い」扱いをされるのが嬉しいんであって、大人同様の扱いをされたら「イジメ」ですよね?

アノ、たとえ話が極端すぎましたけど、茶の湯の席で室町時代、戦国時代、江戸時代に「身分による扱いの差」がありましたけど、それって、「平等の精神に反してる」って表現では的確に言い表せないものがありまして、アア、そのことを書くのはたいへんですけど、たいへんでも書きたいですね。

 

エエっと、茶会における「正客」のこと、これまでも書いてきましたけど、正客って、「自分は偉いんだ」って、アノネ、そういうことでは「全く無い」んですよ。

そしてまた、今日の主題を「上下関係が強烈だから」ってしましたけど、茶の湯は上下関係を超えたところで楽しむものでして、でも「正客」は特別扱いだとか、一つの茶碗から数名でお茶を頂くこともですね、「人の上下関係による」とか、そういうのって、実は、人を序列で差別することではないんでありまして、もっと言えば、形式的平等、あるいは悪平等とでも言ったらいいんでしょうか、茶の湯はそういう世界じゃないんですヨってことが言いたいわけで、ホント、今思うことはですね、そういうテーマを書くこと、すごい困難が予測されまして、でもマア、気持ちとしては「書きたい」ですね、なにしろ、茶の湯の本質に関わることですから。

 

で、一つの茶碗を受け渡すことについてはまた次回に。