空海の帰国と茶

ふみ

「二十年一栖(あるいは二十年一来)」という語は、日本の遣唐使が20年ごとにやってくることを表現した唐僧の言葉で、それで、空海や橘逸勢のような留学僧、留学生の滞在予定は概算20年ですが、最澄は留学僧ではなく、格がはるかに上位の請益僧で、大使、副使、判官などともに、唐に渡った船が翌年、あるいは翌翌年に帰国する時、いっしょに帰れるわけですね。

 

さて、804年出航の遣唐使船のうち、第3船、第4船は唐に渡れませんで、第4船の責任者は、判官の高階遠成でした。でも彼は、無事、都に戻ることができてよかったです。

唐に渡った804年の遣唐使船の帰路ですが、805年の5月に明州を発ち、6月に対馬到着、瀬戸内海に入って7月に帰着しました。

そしたら異例のことが起きまして、何と何と、遣唐使の帰国直後なのに、高階遠成が唐に派遣されることになり、高階遠成の遣唐使船が805年に出港、帰路は806年の8月に明州を発ち、福江島を経て帰国しました。

 

ビックリするのは、高階遠成が空海を助け、唐の皇帝に帰国願いを出す取り計らいをしたことで、まあそれ、遣唐判官の権限でできることではなく、詳しい事情は分かりませんが帰国が承認され、空海と橘逸勢は遣唐使船で帰国することができました。また、帰国後、空海は「新請来経等目録」の提出を高階遠成に託してまして、高階遠成って、歴史的にすばらしく働いた人だなあと思います。マア、806年正月には、皇帝の新年朝貢の儀に参列の栄誉を受けましたし、唐の官職である中大夫と試太子允に任ぜられ、帰国後は従五位上に叙せられ、その後も位階が上がったようですから、その点はよかったかと思います。

 

さて、今日は最初に「二十年一栖」のことを書きましたが、805年に遣唐使船が派遣された後、次の遣唐使船が派遣されたのは838年、つまり、30年以上たってからのことでした。ですから、空海と橘逸勢が20年の予定で唐に留まっていたとすれば、帰国は839年になるわけで、空海の入定は835年ですからネ、唐から「帰国できなかった」と考えられまして、イヤモウ、驚くべき強運だったなアという感想です。

 

さて、高階遠成の遣唐使一行は、806年3月に長安から帰国の途につき、8月に明州から出航しましたが、空海は明州近くの越州に何か月も滞在し、文学、天文、医学、美術その他、いろんな文献を集め、また筆写して日本に持ち帰ることになります。その越州というのは現在の紹興で、話は逸れますが私は紹興酒も大好きです。


話は茶のことになりますが、茶経では茶の産地を8つに分け、それぞれの産地の茶に優劣の順位づけをしてまして、8つの産地のうち「浙東」では「越州」の茶が最上とされてるんですね。それで私は、空海が茶の種を持ち帰ったとすれば、越州の茶ではないかと、マア、それは私の勝手な想像に過ぎないんですけど ・・・

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