最澄と空海の入唐

茶の湯が好きな私ですから、おいしくなるように茶を練りたい、また、点てたいと願いますし、お茶を差し上げるに先だって、おいしく食し、心地良く酒を召しあがっていただきたいと思いますけどね、6月15日のブログに、明惠上人が料理を「わざと不味くして」召し上がったことを書きまして、アノ、茶の湯が仏道を尊ぶってこと、それはすばらしいことなんですけど、明惠上人と私では心境が異なりまして、私なら「わざわざ不味く」はしません、仏道は尊ぶんですけど ・・・
さて、永忠が嵯峨天皇に茶を献じたことを、6月17日のブログに書きました。
また同時に、茶の種を持ち返った最澄が、現在の浙江省台州市に位置する寺(天台山国清寺)で修業したことも書きましたが、空海もまた、茶の種を持ち帰ったという話があります。
それで、最澄や空海、そして同行の僧たち、さらに、前回書いた橘逸勢などですが、西暦
804年出航の遣唐使船で唐に渡ったんですけど、渡唐に至るまでの経過がたいへんでして、入唐船団はその前年、803年4月14日に難波津から出港したわけでしたが、21日に暴風が吹いて損傷を受け、また、瀬戸内海航行中に船が壊れてしまいました。それで、その年の渡海は、中断されました。
そんなわけで、翌804年に、再度、船団4隻で出港したんですけど、そのうちの2隻は、九州から東シナ海に出た時点で渡海不能に陥り、結果として、何とか唐にたどり着けたのは、第1船と第2船の2隻だけになってしまいました。
・・・と言いましても、遣唐使が目指した揚州の港にはたどりつけませんでした。揚州は遣隋使や遣唐使の中国上陸目的地で、現在の入国手続きに相当するものを揚州で行い、許可を得た後、首都長安に向かったわけです。
さて、遣唐使の第1船は8月10日に福州に漂着したんですけど、そこは、地図上で測ってみますと、目的地の揚州から、路程で千kmをはるかに超えてるように思いますが、乗船していた空海の働きによって、遣唐大使は長安に行く許可を得ることができたということでした。
また、第2船は9月1日に明州に着きました。明州は現在の寧波で、副使の石川道益一行は第1船の大使一行と合流、長安に向かったのでしたが、最澄は遣唐使一行と別れ、通訳係の高僧、義真を伴って、天台山へ向かいました。空海のほうは、遣唐使と共に長安に向かいました。
ちなみに、福州は唐の時代、すでに茶の主要産地になってましたし、清の時代には福州でジャスミン茶がつくられ、有名になっています。また、揚州も唐の時代には、茶の名産地になっていました。
さて、私が書きたいのは茶のことであって、仏道は「茶の湯に関わる」から付け足しで書いてまして、長安での空海の修行については省略しますが、その後の空海には全く全く僥倖僥倖、不思議な幸運が続きます。
遣唐使船は、到着の翌年、805年5月に、日本に向けて出港します。その帰国の船には、最澄が乗ってますが、最澄の渡唐の目的は国家事業として、智顗(天台大師)の仏道を「日本にもたらす」ことで、そのため、潤沢な資金を持たされてましたから(遣唐使の正使よりも多い金額)、持ち帰る経典その他の品々を集め、入唐翌年に、明州から出航した遣唐使の帰国船に乗り、6月には対馬に到着、その後、都に上ることになります。
一方、空海ですが、留学20年の予定で入唐してますから、当然、805年の帰国船には乗れません。ところがところが、806年に奇跡が起こりまして、そのことはまた次回に。