空海と嵯峨天皇

ふみ

「女ひとり」の歌詞のこと、1番と2番は前に書きましたので、今日は3番です。

「京都 嵐山 大覚寺」の大覚寺ですが、前回書きました嵯峨天皇は第52代の天皇で、54代の仁明天皇は、嵯峨天皇と橘嘉智子(檀林皇后)の実子ですね。

嵯峨天皇は退位後、離宮(御所)を建て、橘嘉智子と共に移り住みましたが、「嵯峨野」の地名は、嵯峨天皇に由来するわけで、その離宮が後年、大覚寺になっていくという・・・・

 

さて、前回は「自己PR」ってことを書きましたが、空海は唐から帰朝後、嵯峨天皇に自己PRして、それが実っちゃいましたね、幸運だったと思います。

留学20年の定めで唐に渡ったのに、あっという間に帰国しちゃった負い目はあったでしょう、挽回のため自己PRしたり、嵯峨天皇に贈り物をしたり、嵯峨天皇の要望に応じて鎮護国家の修法をしたり、怨霊を鎮めるなどの対策が実り、嵯峨天皇から優遇されるに至りましたから、高野山が開けましたし、官寺だった東寺を任されるなど、アノ、表面上は、仏法を国家権力に隷属させたように見えるかも知れませんが、私は違う考えです。

そもそも、中国における仏教というのは、「国家権力に追随しなければ消される運命」でしたからね、釈尊が示された「生きる道」を絶やさずに伝承し、人々に広めていく為には、表面上、権力や政治に逆らわず、仏道を絶滅させない策をとったことは頷けますし、その事情は、日本も同じだと思います。

 

さて、空海が唐の都、長安の青龍寺で恵果から法を伝授され、密教の正当な後継者となったのは、驚愕の幸運そのものと思います。

また、空海が遣唐使の船団で唐に渡る時、橘逸勢もいっしょでしたし、遣唐使船で帰国するのも、彼と同時だったんですが、その橘逸勢って、橘嘉智子の親戚なんですよね。

 

話は前後しますが、空海が長安に到着し、帰国する永忠を見送りましたが、空海の宿所となったのが、西明寺で永忠が住んでたとこでして、空海が「上新請来経等目録表」に、「二月十日、勅に准じて西明寺に配住す(准勅配住西明寺)」と書いてますの、事実ではありますが、皇帝からも永忠の後任と認められるほどだと、自己PRの面も ・・・ と。

 

まあ、そんなことで、人と人との人生が絡み合っていくことの不思議を感じることですが、書きたいことは「茶との関係」でして、嵯峨天皇の詩に、「与海公飲茶送帰山一首」というのがあります。

『道俗相分経数年

 今秋晤語亦良縁

 香茶酌罷日伝暮

 稽首傷離望雲烟』

海公というのは空海のことで、「香茶酌罷日伝暮」のところ、香りのよいお茶をを飲みながら日が暮れるまで過ごした ・・・ ってことでしょうか。

そして、その場所が、嵯峨天皇の離宮(現在、大覚寺になってる場所)なんですね。

 

そこで、空海と茶の関係なんですが、空海が唐から茶の種子を招来したという話が伝わってます。

私が思いますに、空海が修行したのは唐の都、長安で、茶の栽培が不可能な土地ですから、どうやって入手したのかなあ? ・・・ って、空想がふくらむことです。


まあ、そういう話は、また次回に。

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