茶の湯 ー 懐石は生々しい体感

ふみ

上はTV画面を撮影したもので、永平寺の僧が応量器に手をかけています。字幕には「修行僧が持つ事を許される数少ないものの一つです」とあります。

 

で、赴粥飯法の中に「 為成道故今受此食」という言葉がありまして、アノ、箸と匙を並べる前に唱える偈の一句ですが、「成道の為の故に今此の食を受く」っていうの、イヤァ全く、それほどまでに食事を重視してるのかって、すごく感動です。

さらに、粥を頂く前に唱える「粥食呪願」の中には「究竟常楽」って句があって、粥を頂くことによって、常に究極的な楽の中にいられる・・・ってなことでしょうかねェ、一見、粥を激賞してるように見えるかも知れません、粥に対して針小棒大な表現みたいに感じられるかも知れません。

しかしそれ、粥であれ他の食物であれ、「いただく食べ物」に対して、食事する時にですね、身心に直接、実感、体感として、究竟常楽ということが「生々しく受け止められる」ってことだろうと思います。アノ、「観念的に」常楽だと認識できるってことでは全くありませんで、くどく言ってすみません、「実感」であり「体感」そのものであるってとこが大切ですネ。

 

それで、茶の湯でもネ、懐石があって食事を重視しますけど、「究竟常楽」みたいな「体感」があるわけで、私は全くすばらしいことだと思います。

 

さて、法人税では接待飲食費が認められ、食事等で接待することが行われますけど、でも、茶の湯の懐石というのは、そういう種類の接待とは全くの「別世界」でして、アノ、懐石は、茶会のお客様に対する「接待」ではありません。

そこのところが重要で、単に「おもてなしすればいい」ってわけではありませんで、でも、そういうことを文章表現するのは無理っぽいので今は書きませんが、茶の湯は実体験として「心が通う」ことが眼目ですからね、企業等が取引上の目論見で接待を行うのとは「まるで異なる」わけで、また、「会食」という言葉も、全然当てはまりません。

 

それで、次回はまた懐石のこと、さらに托鉢とか布施のことなどにも触れたいんですが、まあ、うまく書けるかどうかはわかりません。

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