川端康成「雪国」- 主人公の人間関係

ふみ

「人といっしょに居る」ことを楽しむのが茶の湯だと、私にとっての茶の湯は、そういうものです。

それで、誰かといっしょに「ただ居る」だけではつまんないので、食事をさし上げたり、酒を酌み交わしたり、菓子と茶をさし上げたりするわけですが、食事も茶も「自分で調え」、給仕したり、お酌したり、点茶してさし上げる、そういうことの全部が楽しいわけです。

 

ところが、小説「雪国」を読みますと、主人公の島村なんですが、人間関係に問題を抱えてるんじゃない? ・・・ って思われる部分がありまして、まず、駒子に対する心の動きですね。

 

小説の冒頭に近い部分から引用しますと、次のように書いてあります。

『島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていた』

 

あのう、何がびっくりかと言いますと、駒子との心の触れ合いが書かれてないし、そればかりか、こんなことで楽しかったなあ ・・・ みたいな思い出も書かれてないってことなんです、なにしろ、『つかみどころなくぼやけてゆく記憶』って書いてあるくらいですから。

 

それでも島村は、駒子に「引き寄せられてる」と思いますし、じゃあ、「何に」引き寄せられてるんでしょうか?

 

次に、島村の妻のことがちょっとだけ書かれてる部分がありますので、引用します。

『蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけに細君が言った。』

アノ、妻のことはそれしか書かれてませんけど、島村と妻は「風波が立たない穏やかな関係」なんだと、私は読みました。

 

でも、それって「好ましい関係」でしょうか?

私が思いますに、島村にとって妻は「居ても居なくてもいい人」、つまり心理的には、「居ないと同じ存在」なんじゃないかって感じがしました。

 

次に、傍目からはしだいに親密になっていくように見える駒子との関係が書かれている部分を引用します。

『離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会いに来るのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫って来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのような苛責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたずんでいるのだった。駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。』

 

アア、そうですねえ、島村が自分で言ってるように、彼は「寂しい人」なんですねえ。

そして、駒子が島村に打ち解けてくるのに、島村は心を駒子に「通じさせないようにしてる」んじゃないか、つまり、駒子は島村に対して心を開いてるのに、島村は誰に対しても「心を開くことができない人間」なんじゃないかと感じたことでした、その文章を読んで。


続きはまた次回に。

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