決起ブチ上ゲ茶の湯大会

ふみ

上の写真は、豊臣秀吉に関するテレビ番組のワンシーンで、「敵を味方にできる彼の能力が 多くの武将たちに知られた」とあります。もう一つの緑色の字幕には「美濃攻めで・・・」とあるように、美濃攻めの頃からそう認識されるようになったってことでしょうかネ。

 

イヤァ、すごい能力だと思います。スゴイです。アノ、敵を味方にするったって、相手を騙すわけじゃなく、誠心誠意、相手が危機を脱し、さらに、生き延びて利益を得るにはこんな方法があるんじゃないですかってことを説き、話に乗ってもらうとか、マァそんなのは私の勝手な想像ですけどネ、それができるためには、人の心を推し量る能力が必要で、たとえば戦国時代に盛んに行なわれた調略ってことだって、そういう才能、あるいは技能が無いと無理だろうって、私は思います。

 

アノ、秀吉は信長がピンチの時は身命を賭して助けますし、部下に対してはですね、信長と違って温情をかけますし、他人を喜ばせるためにはいろんなことをしますし、そして、ケチなことはしないようですね。金はジャンジャン使うし、また、気前がいいですから、マアそんなわけで、信長とは反対に、人気があったんじゃないでしょうか、想像ですけど。

さらにまた、自分がどんなにすばらしく、魅力的な人間かってことを人に見せつけることにも、非常に長けてたんじゃないかと思います。

 

で、今日は秀吉の茶会の一つ、天正十五年正月三日、大坂城での大茶会の話ですが、標題を「決起ブチ上ゲ茶の湯大会」としましたように、私にとってはビックリな茶会です。

アノ、すでに関白となっていた秀吉は、この大茶会の直前に太政大臣に任ぜられまして、秀吉としては大満足だったんじゃないかと想像します。

 

ところがところが、そういう秀吉をバカにする武将もいまして、たとえば島津義久ですが、秀吉が義久に手紙を送り、九州平定の戦をやめることが天皇の願いですから、そうしてくれるでしょうね(先敵味方共双方可相止弓箭旨、(闕字)叡慮候、可被得其意儀尤候)みたいに言ってやったんです。で、義久がどういう態度をとったかと言いますと、上井覚兼という人の日記に、「旧冬(前年の冬です。なお、旧暦は現在の太陽暦と違って季節が若干違い、旧暦の正月は季節的にもまさに「春」です。年賀状に「迎春」と書く人もいるわけです。)、羽柴殿(秀吉のことです)より書状到来候と書いてあるんですが、その他に、細川兵部太輔入道玄旨(細川幽斎のことです)と茶湯者宗易(千利休のことです)からの副状があったと書いてあります。この当時、利休は豊臣政権を支える重要人物でしたからネ。

それで、羽筑(秀吉のことです)は去年、関白に任じられたけれども、「羽柴ことはまことにまことに由来なき仁と世上沙汰候、当家のことは、頼朝已来愀変なき御家のことに候、しかるに羽柴へ関白殿噯いの返書は笑止のよしとも候、また右の如きゆえなき仁に関白を御免のこと、ただ(闕字)綸言の軽きにてこそ候へ」って書いてありまして、マア、そうですネエ、世の中では、秀吉は由緒も来歴もあやしい人物だという評価なのだから、源頼朝以来の名門である島津家がですね、秀吉を「関白殿」として返書するなど、ありえないことであり、秀吉のように怪しい人間を勅命で関白に任じるなんて、ずいぶんと軽々しい行為だ・・・っていうような感じでですね、要するに島津家は、自分のとここそ偉いんだと、秀吉をバカにしきってまして、秀吉に対する返書もですね、細川宛に出したようです。

 

ところで秀吉は、天正14年から島津征伐の軍を九州に送ってるんですけど、いよいよ自分も親征しようってことで、天正14年12月1日には、兵士30万人分の兵糧米、馬2万匹分の飼料を、1年分用意することを大名らに命じ、それを尼崎に輸送させ、天正15年の元日には、諸大名を大坂城に集め、年賀祝儀の席で九州征伐の軍令を発し、各大名の役割分担を行ったようです。

 

そして翌々日の正月3日、秀吉は九州征伐に参戦する大名を集め、大坂城で大茶会を行いますから、私はふざけて、今日のブログ標題を「決起ブチ上ゲ茶の湯大会」としました。

 

アノ、「茶会」とは言ってますけどね、「茶会」という名称ではあっても、本質は「パフォーマンス」の一種であって、私が好み、楽しむ「茶の湯」とは全く異質でして、どんなパフォーマンス大会だったかってことなど、次回以降に少しづつ。

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