川端康成「雪国」- 葉子が小説の核心

茶の湯では室内で炭火を使いますが、それが原因で火事が起きたという話を聞きません。
茶の湯では、毒見役が毒見するのが当然の時代であっても、貴人に毒見役がつきません。
茶室に入る時、刀は室外に置いて入室しますし、護衛役もつけません。
たとえばそんなことがありますから、茶の湯には、一般の常識では測れないところがあると思います。
で、茶会に招かれる心境は、敵地に赴く警戒・恐怖とは正反対ですね。
自分が悪者と思われ、相手が自分を成敗しようとしてるみたいに感じるんだったら、茶の湯に招かれても、応じるはずないですよね。
そこで次に、「雪国」の主人公島村のことですけど、次のような文があります。
『鈴の音ほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早ここを去らねばならぬと心立った。
そこで島村は縮の産地へ行ってみることを思いついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあった。』
上記引用した部分については以前のブログでも触れましたが、結局島村は、駒子といっしょに「居られない」んですよね、心境の面を考えてみれば。
また、次のような駒子の言葉が小説中に書かれています。
「きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」
ああ、島村は、駒子との関係が長続きしない ・・・ って、「わかってた」んですね。
でも、さらに言えばですね、「長続きしない」っていうのは正確な表現ではなく、ハッキリ言うなら島村自身は、「長続きさせることができない」って「自覚してた」からこそ、「長続きさせることができない」自分のダメさを「自覚したくなくって」、だから駒子に対しては、「きっと長続きしない」っていうふうに、曖昧にごまかす表現をしたのかなあと、私は推測します。
もっと言えば、島村にとって、駒子は恐怖になっていったんじゃないでしょうか。そうです、駒子は警戒すべき性悪じゃないんですけど、「島村の心のほうが」ですね、駒子を警戒し、恐れるわけで、アノ、駒子は心を開いて島村に良くしてあげるばかりなのに、島村は怖くなってしまう、それ、何で? 何で? ・・・っていう世界だと思います。
でも、そういう気持ちになっちゃうってこと、島村自身、どれほど苦痛に感じ、また、そういう自分自身を激しく自責するんじゃないかなあ ・・・ って想像するんですけど、どうでしょう?
マア、私の感想では、島村って、人を信頼できなくて、それで、人を警戒し、怯え、自分は相手から愛されるに値しないという不思議な観念もあって、だから「最終的には拒絶される恐怖」に耐えきれず、どのみち、受け入れられないとするならば、自ら関係を切ることによって、心が激痛に至る事態を予防しようって、もしそうだとしたら、どうしたって孤独に陥るしかないんだけど、でも孤独が苦しくて、人の優しさ、温かさを渇望し、女性から受け入れられたいという飢渇状態をどうすることもできないとすれば、駒子との関係を自ら切ってしまった後では、新たな女性を求めざるを得なくなって、それが葉子だと推測するんですけどねェ、彼自身にも自覚できない隠された内心を見れば。
それで、葉子の登場がなければ、この小説が成り立たないと思ったわけなんです。
そして次回は、天の河が島村のなかへ流れ落ちたのはなぜかってことを。