川端康成「雪国」- 葉子の犠牲と刑罰

ふみ

今回は、小説の最後で「天の河が流れ落ちた」理由を書くつもりでした。

でも、その前段階を書く必要があると気づきました。

いきなり「結論」では飛躍しすぎだし、結論に至る経過を省略しすぎだからです。

 

葉子は火事で燃え盛る繭倉の二階から落ちたのですが、落ちた後の記述を小説から引用します。

『水を浴びて黒い焼屑が落ち散らばったなかに、駒子は芸者の長い裾を曳いてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうとした。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。』

 

そうですねえ、島村にとっては、駒子に抱えられた葉子が、島村の犠牲者のように見えた、また、島村が受けるべき刑罰を、葉子が「島村に代わって」受けたように見えた ・・・ という意味だと解釈します。

 

あの、葉子に対して島村は、駒子に対するようには深く関わっていません。でも、前回書いたように、島村は駒子との関係が苦しくなり、駒子と縁を切った後は、自分と溶け合い、一体化しちゃいたいと夢見る女性として、葉子を選んだというのが私の見解です。

 

そこで、自分を全面的に受け入れ、愛してくれて、慈しんでくれて、抱き取ってくれる女性を、激しく渇望しているのが島村だと考えてみましょう。

そして同時に、自分にはそれを求める資格がない ・・・みたいな自虐的確信が、島村にあったとしましょう。

すると ・・・ ですね、「そんなふうに渇望する自分が悪い」という結論が導かれ、だからこそ、島村の情念にからめとられ、乳児に対するママの役割みたいなことを島村に提供する役割を押し付けられことになる葉子は、「島村の犠牲者」だってことになるんだと思います。

 

次に、「島村が受けるべき刑罰」とは何か?

それは、島村が葉子を「一人の人格をもった人間」として見てないことに起因すると思います。

島村は葉子に対して、自分の苦しい心を救済し、自分の心の傷を癒し、自分を慰め、慈しんでくれる慈母のような存在であることを渇望するのであって、要するに、「自分の欲求を満たす道具」としてしか見ていないということなんです。

 

つまり、島村が「一人の人格」として葉子と人間関係を結び、葉子も「一人の人格」として島村と人間関係を結ぶというんではないんですよね。

あくまでも、葉子は島村の「救済者」として、与えて、与えて、与え尽くす関係、ママが乳児に対するのと同様な関係を無理強いすることになるわけで、アノ、乳児とママの関係ならそれが当然ですけどネ、立派な大人の男性が年若い女性に求める関係じゃないんですよね。

 

アア、それで、葉子に対する同じ切望を、島村は駒子に対して抱いていたわけで、でもそれは、社会的見地からしたら無理筋も無理筋、ヤマタノオロチが人身御供を求めるのと同じで、最後の人身御供はクシナダヒメでしたけど、ヤマタノオロチを島村とすれば、クシナダヒメは駒子や葉子ですね。

ヤマタノオロチはスサノオに退治されてしまいますが、島村と葉子の関係をヤマタノオロチとクシナダヒメの関係に擬するならば、島村は刑罰を受けて当然であって、島村はそのことを自覚してったってことかなあ?

 

イヤァ、参った、参った ・・・ です、「女ひとり」の歌詞3番に「塩沢絣」が出てくることがきっかけで、「雪国」の話を書き始めちゃったんですが、これほど深刻な内容になるとは、全く予想外でした。

でも、ここまで来た以上、突然打ち切り終了ともいきませんから、あと1、2回、最後まで書きたいと思いますが、今日も苦しい話が続きましたから、最後に口直しを。

 

ヤマタノオロチとクシナダヒメ伝説の出雲に行きました時、ぼてぼて茶を体験してこなかったのが残念です。

ぼてぼて茶には具が入ってるということで、その具をどのようにして食べるのかということについて、昔の人は小指で茶碗から掻き出して口に入れることがあったという話、とっても興味深いし、いや全く、私もマネしてみたいですし、もしぼてぼて茶をいただく機会があれば、もう絶対、「小指で掻き出す」のをやってみます、絶対です。

 

余談ですが、濃茶がすごく濃く練ってあって、茶碗からなかなか口に落ちない場合、昔の茶人は、指を使って濃茶を掻き出して飲んだということで、いやそれも、絶対にしてみたいですね、私は。アノ、そういうこと全く平気でできます、私は。


インドに行ったことないし、これからも行かないと思うけど、もしインドに行ったら、カレーは絶対指で食べるし、東京にも手で食べられるインド料理店あるというから、行ってみたいなァ、もちろん「手で食べる」ために!

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