川端康成「雪国」- 自分を持て余す島村

ふみ

 茶の湯は「相手に心を致し」、そして「相手の喜びになるように」行うものであって、そこがすばらしいと思います。

そして、「相手を大切にする」ってことは、つまり、「自分を大切にする」ってことでして、アノ、それは絶対にそうです ・・・ というか、「同じこと」を表から見た時と裏から見た時とで、表現が違うだけってこと。

 

反対に、「相手のことを見てない」、あるいは「相手のことを無視」するってことは、同時にそれ、「自分自身を無視」してるってことなんですよねェ。

 

以前、高校野球の監督と思しき人が、お仲間の方々と話してる場に、椅子の関係で隣接しちゃったことがありました。監督が、「裏切られた」と話してるんですが、どうやら試合に負けちゃったみたいです。

私が想像しますに、負けたくて試合する生徒はいないでしょうし、勝負ですから、負けることはあって当然、それゆえ、生徒は監督を裏切ってないと思った私でした、他人事ながら。

 

アノ、選手には「勝つ責務」などありません。勝って監督の株を上げたり、学校関係者を喜ばせる責務もありません。ましてや、負けて処罰されるなど、あってはならないことです。

試合に負けたら、選手はがっくりきて、気を落としてると思いますから、周囲の人はどう対応すべきか ・・・ ってこと、好い人間関係を築ける人なら、当然、非難などしませんよね。

ですから、選手に「裏切られた」って発言は、勝って監督の評価を上げろという「我欲」しか眼中に無く、選手の気持ちなどガン無視、独りよがりの最高峰で、恨み全開、自分の欲望を満たしてくれなかった者は容赦なくメッタ斬るという、心の面での鬼の所業だと感じたんですけど、これ、監督を非難するために書いてるんじゃなく、同じようなことが世の中には星の数ほどありますから、その一例ってことで。

 

さて、「雪国」の島村ですけど、女性に「包み込んでもらいたい」という「自分の切望」しか念頭に無く、駒子の気持ち、葉子の気持ちを思いやる余裕など、ハナっから無いと思います。急に姿が見えなくなったママを、大泣きして探し回る幼児みたいに、もう夢中で。

 

それで、「自分の欲望」しか見えてないという点では野球の監督と同じなんですけどね、異なるのは、駒子や葉子から「逃げちゃう」点です。

アノ、島村は、駒子に対しても葉子に対しても「激烈な渇求」を隠し持っていて、でも、野球の監督と違って、その渇望を「大っぴらにできない」んです。

ところが監督の背後には、勝利を期待するその学校の生徒や学校関係者がいて、共に勝利を願ってるという図式ですから、監督の「勝って俺の評価を高めろ」って欲求が「正当化」されちゃって、だからこそ「個人的な欲望」であっても、大っぴらにできちゃうという背景があると思います。

 

でも島村は、駒子や葉子に対する「切なる渇望」を大っぴらにできません。なぜか?

説明するまでもありませんが、旅館に長逗留して芸者と共に過ごす経済力をもつ30代後半くらいの「立派な」男性、そういう人がですよ、19歳の駒子に出会い、忘れられずにその後も2度、湯沢を訪れるわけで、マア、想像ですけど、島村の妻は立派な「大人の女性」ですから、心が乳幼児同様の島村にとっては、妻が恐怖の存在で、自分のダメさ加減を妻に悟られないよう、「立派な大人」を偽装してるのかも知れません。そうだとすれば、必死に気張って演技しなければならないけど、それにも限界があるでしょうし、だから妻の元を離れ、緊張感をあまり持たずに済む相手として「弱年の」、そして、当時は社会的評価も低かった職業の女性を求めちゃったのかなァ? 

・・・ すごい想像ですけど。

 

あの、そうだとしてもですね、駒子や葉子の前で島村は、自分のダメさ加減を隠さざるをえないんですよね、「立派な大人」に「見られたい」から。

でも、自分を偽装し続けるって、たぶんものすごくたいへんなことで、島村が自分の「真の姿」を知られたくないとすれば、彼女たちとの縁を「切るしかない」んでしょうねえ。

つまり、自分は赤ちゃんだからママになって欲しいって、駒子や葉子に打ち明けることができないとすれば、関係を意図的に「破綻させるしかない」わけで ・・・

 

最後に、島村は「真実の自分の姿」を「自分自身にも隠して」、自分自身のダメな点を「無いもの」と切り捨てざるをえず、つまりは「自分自身を無視」するのが常態ですから、「自分自身を見てない」わけで、当然、駒子や葉子を一人の人格として「そのままに見る」なんて、できないと思います。


マア結局、島村は心の最深部、自覚できない闇の部分で自分自身を嫌っていて、だから、誰であれ他の人も好きになれないって構図にハマってるのかなあと想像します。

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