川端康成「雪国」- 天の河が流れ落ちる意味

前回書いた「天の川席」ですけど、私は「亭主自身が楽しむために」つくった茶室だと想像します。
アノ、真ん中の道具畳が「天の川」、その天の川を挟んで、居前の左側と右側に牽牛と織女をお招きし、粗茶一服差し上げるなんて、なんと楽しく、うれしいことでしょう!
茶会においてお客様というのは「お一人」で、つまり、客が2名、3名、4名であろうとも、「正客」お一人が客であって、他の方々は「相伴」ですけどネ、天の川席でしたら、牽牛、織女の「お二人」がお客様って感じになりませんかねェ?
・・・ って、すごく思っちゃう私です。
マア、後座の場合はそういう勝手な想像も可能ですけど、問題は初座ですね。炭はともかくとして、懐石をどうするのか、私にとっては難問ですけど、単なる思い付きの空想を次回に書きたいです。
さて、小説「雪国」の終幕ですが、「天の河が島村のなかへ流れ落ちる」って、何を意味するんでしょう? 私はそれ、物語は「完全に」終結していて、尻切れとんぼではないと読み解きます。
主人公島村は、明確に「駒子と別れる」決意を固め、それを行動に移す「はずみをつける」ために縮の産地へ行ってみたのでした。そして、縮の産地から湯沢駅に戻り、車に乗って温泉宿に帰る途中、偶然、駒子に出会うことになり、火事を見ることになります。
島村はその決意によって、自分を抱きとめ、救ってくれる女性として願望していた駒子を、「自分とは関りのない、主体性を持つ一人の人格」として、初めてとらえることになります。
なにしろ、それまでの島村には「自分の気持ち、渇望」しか見えてなくって、そういう願望を持つ自分というものが客観視できなかったのでした。
そして同じことは葉子に対してもそのとおりで、島村は葉子を「駒子の代わり」にしたいのであって、「一人の人格としての葉子」を見てはいなかったのです。
その葉子は、猛火の二階から雪の中に落ち、小説では「葉子の腓が地上で痙攣」とか、「葉子の昇天しそうにうつろな顔」と書かれてますが、島村はもうこれで、葉子を駒子の代わりにすることができないとハッキリ認識できましたから、それで駒子も葉子も、「島村の渇求を満たすための道具」から、「一人の人間」と化したわけです、島村の心の中では。
つまり島村には「自分の切なる願い」しか見えてなかったのに、満たして欲しいと願う相手である駒子と葉子を失ったことによって、「激しい渇望」に「占領されていた」自分の姿が発見できたと思います。
つまり、飢渇に取り憑かれていた「自分自身」が認識できたわけで、つまり、駒子を「一人の主体者」として認識でき、葉子を「一人の主体者」として認識でき、それは同時に、島村が自分自身を「主体者」として発見したということであって、その三つは、実は「同じこと」なんですよね。
6月12日のブログに「恋に憑かれた女」ってことを書きましたが、その女性には「自分自身」が見えてなくて、ただただ「恋する気持ち」が自分自身であるかのように錯覚してるだけ ・・・ って私は思います。そうです、彼女は客観的に「自分自身」を見ることができてないと思います。
でもネェ、「自分自身が見えてない」って、あまりにも普通のことだと思いませんか?
もっと言えば、「客観的に自分自身を見ることができる人」って、多くなかったりして。
そしてそして、恐ろしいこともありまして、それは、「自分自身が見えるようになる」ことによって、苦しみの人生が始まる人がいるってことなんです。
ああ、だから、それで、人は「自分自身を知ろうとしない」のかなあ?
さて、それまで酔生夢死だった島村ですが、ついに自分を客観視できまして、「自分に気づいた」ということは「外の世界に気づけた」というのと同じことでして、島村が自己に気づいた時、夜でしたから認知できる外界、つまり客観的実在は「天の河」で、それで島村にとっては、自分という存在に気づく、イコール、外界の存在に気づくということで、「自分の心を占領する葛藤」だけに気をとられていたけど、「自分自身」というものがあることに気づき、同時に「外界」があることに気づき、自分自身も外界も含めた「存在」として「自他共にある」という気づき、・・・ だから、「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちる」という生々しい現実感が!