川端康成「雪国」- 島村には苦悩の出発点

前回に続き「天の川席」ですが、空想したくても困難なのが、懐石をどう行うか? です。
道具畳が台目で、炉の向こう側に向板がありますから、貴人畳の客は一人でないと給仕不能かと思います。なぜなら、炉がある場所を避けて膳を置かねばならず、茶道口と給仕口が兼用で、亭主が動ける道具畳の空間が極狭ですから、1尺5分の折敷では大きすぎると想像します。また、台目畳の相伴席にも、お一人しか座っていただけないと思います、亭主の動ける範囲が狭すぎるので。
そして、飯次や焼物、香の物や湯斗を取り回すことは不可能っぽいので、マア結局、飯後の茶事として、吸物膳とかもっと小さい盆類で向付と汁をさし上げ、その後は八寸で杯事を行うのが楽しくていいんじゃないかナァと想像します。
そして、お流れ頂戴の場面ですが、正客と次客の座が離れてますから、亭主は必然的に、正客に対しても次客に対しても一対一で対応することになりますね。他の客を介することになる千鳥のスタイルを好まない私ですから、省略しない形で「たっぷりと」杯事ができるってこと、さらに嬉しいです。
最後の菓子は、菓子椀などで「めいめいに差し上げる」、これもまた、ていねいで好ましいやりかたで、私はいつもそんなふうにできたらと思っています、本心で。
マア結局、初座においても、お客様お一人お一人に「心を込めて」おもてなしできることになりますから、イヤア、すばらしいことだなあ ・・・ なんて、全くとりとめもない空想にすぎませんけど。
さて、「雪国」の主人公、島村のその後について、小説には書かれてない未来のことなんですが、島村は生き方の選択を迫られる事態に直面していると思います。
一つは、自分の真の姿を見つめ、どう生きていくのか、生き方を探り、実践していく道です。
もう一つは、自分の真実を知ることが「苦しい」ので、自分を知ることから目をそらすことです。
その2番目、「自分から目をそらす」方法は、人によっていろいろですネ。
ますます不幸に陥る方向は、ひと時の慰めと快楽に身をゆだねることで、イヤァ、イギリスと清の間にアヘン戦争が起こった当時、また、その後の歴史を見ますと、清国人アヘン患者の数って、驚愕の多さだったわけで、人は苦しい現実から逃れるためにそうなっちゃうってことの一例で、身近なところではギャンブル依存とかゲーム依存なんてのもそういうことかなあ、マァ、いろいろあるようですね。
そういうのとは別に、億万長者になるとか、世の中で、また、組織でトップを目指す、あるいは社会的に最高の評価を得るなど、高い目標を目指してがんばるという、一見、すばらしい人生もあるようで ・・・
ところで、バーナード・ショーは、次のように言ったそうですネ、
Alcohol is the anesthesia by which we endure the operation of life.
・・・ イヤァ、わかります、わかります、その気持ち、同感です。
Endure、endure、耐えて、耐えて ・・・ って、まあ、辛いことですが、「自分を知る」ってことは、「雪国」の主人公島村には耐えれない辛さだろうなあと思います。
Operation、手術ですけど、島村が自分の人生を「ありのままに見る」ってこともそうで、アルコール類で酔わなければ痛みに耐えきれないって、島村じゃなくても、苦しい情況では誰でもそうだと思います。
だからこそ、「自分自身を見る」ことを苦痛に感じる人は、上記「2番目の道」を選ぶんだろうなあ。
小説の最後で、島村がたとえ一時的であれ、「自分自身を客観的に見る」視点を得たということは、島村にとって苦悩の出発点になるわけで、さあ島村は、「自分自身」と真正面から対峙して、生き方を探る道を選ぶのでしょうか、はたまた、自分を「見ないようにする」ために、自分の外側に目標を設定して邁進する選択をするのでしょうか、その分岐点になるんですよネ、小説「雪国」の終幕は。