「松島の壺」運搬の疑問

「信長公記」は信長の家臣だった太田牛一が江戸時代に完成させたようですが、書いてあることが正しいとしても、ドキュメンタリーの映像とは違いますから、読む人によって異なる解釈が行われるのは当然ですね。例えば永禄11年10月に、信長が芥川山城に滞在していた時のことを書いた一文を紹介しますと、『今井宗久是又無署名物松嶋ノ壺并紹鴎茄子進献』と書いてありまして、これを読みながら私は、芥川山城において、今井宗久が松嶋ノ壺を進献している場面を思い描いていたのでした。
でも、そうすると、腑に落ちないことがあるのです。
それは、三好方の本拠を攻略したとはいえ、信長は進軍中ですから、畿内の住民が安心して生活できる状況じゃないわけです。加えて10月2日には、信長が、堺に対して二万貫、石山本願寺に五千貫、法隆寺には千貫の金を出すように要求しましたが、今の金額に直すといくらになるか、いろんな計算があるようですから、二万貫が何億円、あるいは何十億円にあたるのかわかりませんが、堺が必死で防戦体勢を整え、信長に対抗しようとした金額ではあったわけです。結局、石山本願寺と法隆寺は言われたままに金を出し、堺は抵抗したのでしたが、マア、翌年永禄12年には、結局二万貫を信長に納めました。アノ、永禄12年の2月ですが、織田方の軍勢が尼崎に対して金を出せと要求したことで、尼崎の町衆との間に抗争が起き、尼崎の町が焼き払われてしまう事件が起きまして、その事件は織田側の勢力が勝手にそういうことをしちゃったわけで、信長自身が「金を出せ」と堺に命じたこととは雲泥の差で、堺の場合は「信長命令」ですからネ、まともな防衛戦力を持たない堺の町衆が、信長に対抗できないのは当然も当然です。
話を永禄11年に戻しますが、10月2日の二万貫要求に対して、堺は信長軍の襲撃から町を守るため、防戦体勢固めに躍起となります。そのさなかにですね、今井宗久は堺を抜け出し、芥川城に向かうわけです。
しかしですネェ、当時の戦場では、敗戦の武士に対しては落ち武者狩りが頻発し、たとえば本能寺の変後、徳川家康は落ち武者狩りから必死に逃げ延びましたが、途中で別れた穴山梅雪は落ち武者狩りで殺され、その墓が京田辺市にありまして、また山崎の戦いに敗れた明智光秀は、現在の京都市伏見区小栗栖の竹藪で殺されたという話があります。
じゃあ、武士じゃない「町人」なら安全に出かけられるかと言えば、全然そうじゃなく、野盗の類が出没しますし、さらに何より、村民でない「よそ者」が村を通行する時、安全は全く保障されないというか、襲撃される危険があたりまえの時代ですからね、まあとにかく、戦時に他所を行くわけで、しかも、大形の東山御物を持参して・・・なんてこと、仮に今井宗久が豪胆な人物だったとしても、危険すぎませんか?
そうですねえ、この平和で安全な世の中であっても、ヴァイオリニストは高価なヴァイオリンに保険をかけて持ち歩くんですから、ましてや「松嶋の茶壺」なんて宝物は、厳重に梱包して背負わなければ持参できない大きさでしょうし、その荷物は目立つでしょうねえ、野盗から見ても兵士たちから見ても。
それで、堺の町から芥川山城までの距離は、当時の道路や路程は不明としても、40Kmまではありませんから、距離だけ考えれば容易に到着できると思います。けれども、たいへんな危険を冒してまで、小さくはない宝物を運搬するってこと、私が今井宗久ならしませんし、たとえばですね、茶入でしたらね、懐中できますから、自分の身が安全なら茶入も安全に運べるとは思うんですけど、もう一つの問題があります。それは、「戦いの陣中」でですね、小さかろうが大きかろうが茶道具の受け渡しなんってこと、するものでしょうか? ・・・ってことです。
さらに、茶道具を貰った側としてもですよ、戦地でその宝を安全に保管し、最後は本拠の城まで持ち帰るとすれば、警護と運搬に多大な労力と細心の注意を払わなければならなくなるはずで、そんな余裕、あるでしょうか?
というわけで、戦時にですね、松嶋ノ壺を堺から芥川山城まで運ぶなんて、ありえないだろうと、ずっと疑問を持ってたわけなんですが、その後、「高槻市史」の中に関連する文章を見つけまして、私の描いたイメージそのものが間違いだったのだ ・・・ と思うようになりましたから、そのことを次回に書きます。