茶道具を見せびらかす織田信長

8月27日のブログに、次のように書きました。
「その後、彼は、修道士と私を、二、三人の特別な寵臣とともに伴って、茶の湯の室、および彼が同所で所蔵していた他の高価な品を見せました。」
その「高価な品」のことを書く前置きとして、前回までのブログを書いてきたわけですが、ルイス・フロイスが茶の湯の室と高価な品を見せてもらったのは永禄12年のことですから、芥川山城で「つくも茄子」、「松島の壺」、「紹鴎茄子」が信長のものになると決まった翌年であり、永禄12年の初回名物狩で茶入「富士茄子」、法王寺所有だった竹茶杓、池上如慶所有だった茶入「蕪なし」、「平沙落雁図」、「桃底」の花入を入手した直後ですからね、そういう宝物をルイス・フロイスとロレンソ修道士に見せたんじゃないかなあ・・・と想像します。信長としては、たいへん自慢だったでしょうし、宝物収集の初期段階ですから、気分が高揚してたんじゃないかと思います。
その後の信長は、名物狩をさらに進めますし、また、松永久秀からは、さらに茶道具等を奪うことになります。天正元年の暮れに信長側の軍は久秀の息子久通(信長公記に松永右衛門佐と書いてある人)が守る多聞山城を包囲しますが、マア、攻撃して攻め落とすことはしなかったんですね。戦闘によって落城させると、茶道具を含む宝物が、すばらしい城と共に灰燼に帰しますからネ。12月26日に松永久通は多聞山城を明け渡して降伏しました。
その事件について、信長公記巻六では次のように記しています。なお、元亀四年と書いてありますが、元亀四年の七月二八日に「天正」と改元されてますから、マア、元亀四年の冬というのは、天正元年になって迎えた冬ということと同じだと思います。
『元亀四年癸酉去年冬 松永右衛門佐 御赦免に付て多門の城相渡候則 山岡対馬守為定番多門にをかせられ 正月八日 松永弾正 濃州岐阜へ罷下天下無双の名物 不動国行進上候て御礼被申上以前も代に無隠薬研藤四郎進上也』
松永弾正久秀は息子を助けてもらったお礼に、信長の許に参じて、天皇家伝来の太刀「不動国行」を献じたというわけですね。また、「薬研藤四郎」というのは、足利義満が持っていた短刀ということです。
で、ルイス・フロイスは、次のように書いてます。なお、「露台」とあるのは松永久秀のことです。
『露台は、二ヵ年半ほどその多聞城他で包囲された。そして上記の公方様から赦免され、信長の許で恩恵に与かろうとして、4万クルザード以上の価値があった自らの高価な茶の湯の道具を余儀なく彼らに譲渡せねばならなくなり(以下省略)』
さて、松永久秀は「平蜘蛛」と呼ばれるすばらしい古天明の茶釜を持ってたんですが、信長はもう、それが「欲しくて欲しくて」、何度も久秀に「よこせ」と要求したらしいんですけど、久秀は頑として撥ね返したようです。最後の最後、信貴山城を信長軍に攻められた時、信長には絶対、平蜘蛛は渡さないと、平蜘蛛の茶釜を破壊して自ら命を絶った・・・という伝説がありますけど、信長公記巻之十には、『十月十日之晩に 秋田城介信忠 佐久間 羽柴 維任 惟住 諸口被仰付 信貴の城へ被攻上夜責にさせられ防戦弓折矢尽松永天主に火を懸焼死に候』と、焼け死んだことだけが書かれていて、「平蜘蛛」に関する記述はありません。
なお、今日の写真はテレビ画面を撮影したもので、松永久秀のひざ元に「大切にしている茶道具」が、袋に包まれて置いてあります。茶の湯が大好きだった文化人の武将だったってこと、肖像画をとおしてもわかると思います。