茶の湯は肯定する心情

ふみ

 

上の写真はTVドラマ、原題「去有風的地方」の一場面で、邦題が「風の吹く場所へ」、

11月27日放送のワンシーン、挿入歌「好好的」の字幕です。

画面左側の日本語字幕に「あの時の愚かさを許して」とあるんですけど、画面右側の中国語字幕には「願你原諒彼時」としか表示されていません。でも、実際の放送ではその直後、「的傻」と、次のシーンで続きの字幕が示されまして、結局、「願你原諒彼時的傻」という歌詞が「あの時の愚かさを許して」と邦訳されてるわけです。

その後の歌詞は、原詞では「好好的啊 會好好的啊」なんですけど、日本語字幕では「大丈夫だよ きっと大丈夫だから」と訳されてまして、それは意訳でして、つまり、「それでいいんだ」と「肯定する心情」ってことですね。

 

その「肯定」ってことですが、茶の湯は「肯定する心情」が無ければ成り立たないというのが私の思いです。

話は飛躍しますが、茶の湯の成り立ちは仏道とも関連してまして、仏道の根源は「肯定する」態度と私は思ってまして、でもそういう話は万言でも表現しきれないのでやめときますが、マア、「日々是好日」という映画がありましたけど、結局その「日々是好日」って心情でして、それが挿入歌「好好的」では、「好好的啊 會好好的啊」と、繰り返し強調されてると思います。


アノ、「日々是好日」って、感覚的、体感的、心情的に「うれしく楽しい愉悦の日々」という意味じゃありませんで、前回は「枕中記」の盧生の話を書きましたけど、盧生は元どおりの、着てるものが粗末で汚れてて、思うようにいかなくて苦しいと感じてた人生に戻ったわけですが、でも彼は呂翁によって、「日々是好日」に気付かされたわけです。

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