吸い茶は嫌だって気持ち

ふみ

上の写真は、ある漫画のインターネット画面です。

で、どういう情況かをちょっと説明するのが下の写真で、これもインターネット画面です。


 

さて、大谷吉継と石田三成に関する上記の逸話、史実じゃないですけど、何人分もお茶が入ってる一碗を、数人が順送りにして飲む場合、最初に飲む人は問題ないですけどね、次に飲む人から最後に飲む人まで、「他人が口をつけた茶を同じ碗から」飲むことになりますからネ、心理的に嫌な人もいるでしょうね・・・ってことです。

マァ、その気持ちをですね、大谷吉継が病だったって事実を利用し、「他人が口をつけたものを飲むのは嫌だ」って感情があることを前提にして、その気持ちを世の人に訴えかける好材料として、写真で紹介した作り話がまことしやかに語られてきたのかナァなんて想像することです。

 

で、茶の湯というのは、昵懇の人同士がですね、「いっしょに過ごす時間」そのものを楽しみたいから行うものでして、アノ、それは「私の思う茶の湯」であって、「茶の湯って何をするものなの?」・・・ってことは、人によって千差万別でしょうが、「私は」好ましい人といっしょに居ること自体が喜びなので、そういう時間を持ちたいために茶の湯をするんだって心からそう思ってます。

で、「いっしょに居ることを楽しむ」なら「楽しいことをしたらいいんじゃない?」って考えもあるかもしれませんけど、じゃあ、極端なことを書きますが例えば史記の「殷 本紀」に「以酒爲池縣肉爲林使男女倮相逐其閒爲長夜之飮(酒を以て池と為し、肉を縣けて林と為し、男女をして倮(はだか)にして其の間を相い逐わしめ、長夜の飲を為す)・・・って記述があって、大谷吉継と石田三成の話同様、空想でしょうけど、そういうのがホントに歓楽の極みかと言えばデスネ、そうじゃないんであって、なぜなら「礼節が無い」ってことでして、アノ、礼節に「欠ける」とかじゃないですね、礼節皆無ですからね、ソレ、「人を尊び、大切にする」ことと反対だからですが、なぜホントの喜びじゃないのかってことは、これ以降、少しずつ書いていくっきゃないかなあと思ってます。単純な話じゃ済まないからです。

 

話が脱線しましたけど、「昵懇の人といっしょに過ごす」喜び、楽しみを実現させる手法が茶の湯だと「私は」思ってまして、そのためには「礼節」が欠かせませんで、ですから、「この人といっしょの時間を楽しみたい」と思ってない人が一緒に集まる席で、一つの碗を順送りにして茶を飲ませる、マア、「強要」されるみたいな雰囲気は、茶の湯の楽しみを毀す行為だと「私は」思うんですが、続きはまた次回に。

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