「つくも茄子」茶入が信長に

で、次は何の根拠もない私の妄想ですが、織田信長って、東山御物にものすごくあこがれて、欲しさMax だったと、イヤ、ほんとに妄想ですけど、きっとそうだったんじゃァ?
それで、散逸していた東山御物を探したと思うんですね。
まあ、そういう空想はまた別の機会に書くとして、松永久秀が「つくも茄子」を持ってると知れば、信長が手に入れる方策を考えるのは当然と思います。
さて、織田信長は足利義昭の願いを受けて永禄11年9月7日、京に向けて進軍開始、三好方と戦って勝ち進み、芥川山城を攻撃した時、三好長逸が城から逃れたので、10月1日、信長は足利義昭を伴って芥川城に入り、そのその後14日間滞在します。
さあ、そうなりますと、公家や武士が次々と挨拶に来訪しましたが、松永久秀もやってきましたので、信長公記からその時の様子を書いた一文を引用します。
『御本陣芥川之城へ御人数被打納五畿内隣国皆以て被任御下知 松永弾正者我朝無双のつくもかみ進上申され(以下、省略)』
あの、「松永弾正」とあるのは松永久秀のことで、久秀は三好陣営の実力者だったんですが、三好一族には内部争いがあって、松永久秀は三好義継と共に、信長の味方をすることにしたのでした。
しかし松永久秀は、三好陣営の実力者だった経歴を持ち、信長の敵勢力だったわけですから、仲間に入れてもらうために進物を持参しまして、それが信長垂涎の「つくもかみ」でした。アノ、信長が「欲しがってた」品ですからネ、惜しかったけど、信長の求めに従わざるをえなかったんでしょうかね。
なお、「つくもかみ」と書いてあるのは、前回書いたように、漢字表記では「九十九髪」であり、「九十九髪茄子」すなわち「つくも茄子」茶入のことです。「我朝無双」と評価されてますね。
さて、三好方はその後も信長軍に負け続け、勝利した信長は、足利義昭を室町幕府15代将軍にすることができました。10月18日のことですが、信長公記には関連記事がありませんで、マア、頷けますね。
それで、信長は「つくも茄子」を茶会で用い、とても愛用してたようで、最後は本能寺に持参しましたから本能寺の変で焼けた? ・・・ のかもしれませんが、その後は秀吉の手に渡り、大坂城落城の時に焼け、壊れてしまったわけですね。
さて、今日掲載した写真はテレビ画面を撮影したもので、「つくも茄子」のX線写真です。あんなふうに割れてたんですね。
前回書きましたように、徳川家康は奈良から藤重親子を呼び出し、大坂城宝蔵の焼け跡から茶道具を探させ、結果、いくつもの名品茶入が発見されたという話があります。新田肩衝、志貴肩衝、玉垣文殊、小肩衝、大尻張ですが、家康はもう一度探すように命じ、付藻茄子、宗薫肩衝、針屋圓座、松本茄子が発見されたというんですが、それらが藤重親子によって修復された後、付藻(つくも茄子)は藤元、松本茄子は藤厳が家康から賜ったということが、江戸時代末頃の本に書かれてまして、でも、史実を正確に伝えてるかという点では疑問ですから、前回は紹介しませんでした。まあ、そういう話もある・・・というくらいで。