明惠上人と茶

ふみ

「見上げたもんだよ屋根屋の褌」という地口は、映画「男はつらいよ」シリーズで多くの人に知られるようになったと思いますが、私の好みじゃありませんで、現時点で切実なのは啖呵売のセリフ、「上がっちゃいけないお米の相場」じゃないでしょうか。

江戸の地口には「何だ神田の大明神」、「そうで有馬の水天宮」、「嘘を築地の御門跡」、「しゃれの内のお祖師様」とかありまして、その社寺全部、行ったことがあります。

その中の「お祖師様」、つまり、堀之内妙法寺に、「明惠上人書状」という文書が伝わってまして、インターネットで写真と解説を見ることができます。

https://www.city.suginami.tokyo.jp/documents/7576/30.pdf

 

書状は、

『兵衛尉殿 住房へ

御出願状持参候由

禅迦院にて茶ヲ

まいらせ候へ やかてけさん

可申候也

十一日  高弁

證月上人』

と読めるって、解説されています。

 

それで、原文に無いことまで付け加えて推し量りますと、兵衛尉殿が願状を持って明惠の住房(禅堂院のこと。最初の石水院が洪水で流された後、別の場所につくられたのが禅堂院。なお、現在の石水院は、最初にあった場所から移されている)においでになると聞いてますから、禅迦院(禅堂院に付属する客殿で、湯沸かし設備などもあった)で茶を差し上げ、〇〇〇〇〇〇、以上、ご連絡申し上げます。十一日  高弁(明惠坊高弁)   證月上人様

 

上記「〇〇〇〇〇〇」の部分、明惠がどう対応するのか、願いごとの内容が書かれてないので不明ですが、證月上人というのは、宋に渡って修行した経歴を持つ慶政という僧で、明惠上人と交流がありました。

また、その手紙とは別に、明惠上人が高尾山神護寺の上覚房行慈に宛てた手紙というのが高山寺に残ってまして、それには、「以前より依頼されていた茶の実ですが、未熟ですので、熟しましたら、いくらかこれを進上いたしましょう」ということが、用件の後に書いてあるそうです。

 

蛇足ですが、私の勝手な空想では、「兵衛尉殿」というのは湯浅宗光のことじゃないか?
・・・ なんて、その想像、根拠はないんですけど、もう一つ「事実」を挙げますと、上覚房行慈というのは湯浅宗重の子で、かつまた、明惠の叔父にあたるんですね。

 

さて、明惠上人と茶に関わる「確実な」文献資料は、上記の二つの手紙しか、現段階では確認されてないそうで、そうなりますと、上人がどこから茶の種を入手したのか? どの場所に茶の種を播いたのか?
・・・ ってことなど、「伝承としては」いろいろ伝えられてるわけですが、「ほんとにそうなのか」は疑問だろうと思うんですけど、何ごとも「厳密」を求めると苦しくなりますから。


次回は、茶が日本に伝わった経緯などをちょっと。

×

非ログインユーザーとして返信する