茶の伝来

ふみ

茶は遣唐使が日本に将来したということで、聖武天皇の時には儀式で用いられた記録があるそうですが、茶の「栽培」ってことになりますと、最澄が茶の種を持ち帰り、現在の日吉茶園(大津市坂本)で育てられたと言われてますね。

最澄が修業した国清寺は、現在の地名で言うと浙江省台州市、天台県の国清寺村にありますが、現在の台州市は、有名な茶の産地でもあります。

 

さて、最澄が遣唐使船で唐から帰国した時、永忠という僧も、いっしょに帰国したのですが、永忠は唐の都、長安で修業した人で、茶が栽培できない気候条件です。

でも、茶は栽培地から遠方まで運ばれ、喫されてました。チベットやモンゴルなどに茶を運ぶ交易路がありまして、長安の都も喫茶文化が栄えてましたし、特に寺では茶が大切にされたということです。

 

ただ、交通不便な時代に茶を遠路輸送する関係上、「運びやすいかたち」にされてたわけで、それを「煮出して飲む」茶の飲み方でしたが、永忠はその飲み方で嵯峨天皇お茶を献じたことが、日本後記に記されてまして、以下、帝が近江国滋賀韓崎に行幸なさった時の記事です。

 

『近江国滋賀韓崎に幸す。(中略)大僧都永忠、護命法師等、衆僧を率い、門外に迎え奉る。皇帝輿を降り、堂に上り、仏を礼す。更に梵釈寺を過ぐ。輿を停めて詩を賦す。皇太弟および群臣、和し奉るもの衆し。大僧都永忠、手自ら茶を煎じて奉御す。御被を施さる。即ち船に御し湖に泛ぶ。国司、風俗歌舞を奏し、五位巳上ならびに掾以下に衣被を賜う。史生以下郡司以上、綿を賜うこと差あり。』

 

文中に「梵釈寺」とあるのは、永忠が住持(住職のこと)をしていた寺です。読んでみますと、帝と臣下が漢詩の遊びを行い、永忠が自ら茶を煎じて帝に献じ、帝は舟遊びをなさり、国司が歌舞を演じ、贈答を行うなど、つまり、一大歓楽イベントだったんだろう・・・
って想像します。


それで、永忠に関連して思ったことを、次回に書きます。

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