「共に楽しむ」のが茶の湯

ふみ

 

前回は弟子から123万円を騙し取ったお茶の先生から話を始めましたが、その先生、どんな茶の稽古を目指してたか ・・・ ってことも報道では紹介されてまして、上はその画像です。

 

「心の修行による人間性の向上」って言葉がありまして、イヤァ、モゥ、すごいです、立派と評価されるんでしょうか、つまり、「社会的に賞賛されるかなァ」と、私は思いました。

 

でも、でもデスョ、もっと考えを進めてみたい ・・・ ってことで、ちょっとおつきあい下さい。

「人間性の向上」を目指すってことはですネ、現時点では「ダメな人間」だってことが前提で、だからこそ向上を求めるべきである ・・・ って心情と思いますけど。

更に言いますと、「心の修行」って書いてありますからネ、要は、ダメな人間だから「修行を要する」って考え方になってると想像します。

 

エエッと、今回、「心の修行による人間性の向上」って言葉に直面しましたからネ、いつの日か、そのうち書ける時期がくるかも知れない・・・程度に夢想してたことをですね、結論だけ今、書いちゃいますと、「人間性の向上」についてはですね、道元禅師の「本証妙修」、アノ、大切なのは「妙修」であって、それが99%、それで、残りの1%が「本証」かなあと思ってまして、なぜかと言いましたら、人はすでに本証を得てますから、その「本証」を「実際に生きようとすること」が重要で、その実践が人生なんだから、「妙修」ってこと、イコール、日々を生きることと考えてまして、そういうこと、これから徐々に書いていこうかと思ってたんですが、今日は、いきがかり上、ちょっと書いてみました。

 

次に「心の修行」ですけど、その場合、あのねェ、心は「修行しなくちゃダメだ」って前提で話を進めてませんか?

つまりですね、本来「十全な心」であれば、修行なんか必要無いわけですよネ。

ですから、「心の修行」を求めるというのは、「あなたの心は十全でない」と認定してるってことです、あらかじめ。

そんなわけで、「人間性の向上」を求めるってことは、つまり「現状の自己を否定」してるってことで、だから、ダメな自分をダメじゃなくするために「心の修行」が必要だと言ってるんだろうと思います。

・・・ でもネエ、人の心って十全じゃないわけ?

 

それで、今は書く時期に至ってないんですけど、ちょこっとだけ書きますが、道元禅師が「本証」と言ってるの、大乗で言う如来蔵の顕現、表現を変えれば如来性起だと思うんですが、そんなふうに言語表現しなくてもですね、自分をダメと否定するのとは正反対の心情なんですよね。

 

話が込み入って混乱に陥りそうなので単純に言いますと、本来は何の問題もないから、対策も不要ってことです。

そこで、「心の修行による人間性の向上」というスローガンについて、私の感想を言います。

茶の湯に集う仲間に対して、「あなたの心は修行を要する」とか、「あなたは人間性の向上を要する」みたいに思ってる、あるいは思われてるとしたら、いっしょに茶の湯なんか楽しめませんよね ・・・ ってことです。

アア、「このような自分」であることが、いっしょに集う人々に許容され、喜んでもらえる場だからこそ、共にひと時を楽しむことができる ・・・ って、それが茶の湯なんですよね。

×

非ログインユーザーとして返信する