茶の湯 ― 主客一体は幻想?

前回のブログに、「自分の部屋で大麦が泣きじゃくってるんです」と書きまして、今、「ずいぶんウソついっちゃったなあ」と、自分のことを考えてます。
さて、今日の添付写真ですが、TVドラマ「去有風的地方」(邦題「風の吹く場所へ」)で、ヒロインの許紅豆が、大麦茶(大麦)が入居してる三號房(3号室)の扉の前に立つ場面です。
許紅豆は「いっしょに食事しよう」って大麦を誘いに来たんでしたが、部屋の中から大麦の泣き声が聞こえるんです。
アノ、大麦の姿は映らないシーンなんですけど、前回のブログに書いたとおり、私は大麦が泣きじゃくってると「思いこんじゃって」まして、それで、そんなふうに書いちゃったんですよネ。
ですから、「大麦が泣きじゃくってる姿」なんか見てないわけで、ただそのような情景が私の脳裏に浮かびあがった・・・ってことなんです。
感慨深いのは、今から千七百年くらい前にインドの仏教徒が、人の心のそういう面に気付き、研究を始めたってことで、アノ、「大麦が泣きじゃくってる」というのは客観的現実ではなく、ただ私が「そのように感じ取り、それが事実だと思い込んだ」ってことなんですね。
ですからマア、私が「ウソついた」って書きましたけど、ウソをつこうと意図したわけではなく、「感じたまま」を書いたんですけど、私のそういう感じ方が現実を正確に表している保証はない・・・とでも言ったらいいでしょうか。
マア、話を混乱させないために簡潔に言いますと、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」でありまして、人は「自分の心にイメージしたもの」を「客観的事実」と思い込んじゃうってことですね。
エッ、するとですね、自分の心がとらえたものや、さらには自分自身をも「疑ってかかる」、あるいは「否定する」って方向に流れる向きもあろうかと思いますが、そういう思弁に陥る方向性は、私は取らないんですけど、それは、12月2日のブログ「『共に楽しむ』のが茶の湯」にちょっと書きました如来蔵、そして性起ってことに親和感を持つからですが、如来蔵や性起などの「仏教用語」はどうでもいいんであって、人が求めたいのは「喜ばしい」感覚 ・・・ って言っちゃうと、あまりにも表現が足りな過ぎるんですけど、詳しくはちょっとずつ書いてくつもりでして、茶の湯の心というのは、如来蔵とか性起と表現されてきた心境が基盤にありますから、まあ、徐々に ・ ・ ・
マア、そんなわけで、今日の標題を「主客一体は幻想?」としましたが、実は、「主客一体」は茶の湯そのものであって、それは幻想なんかじゃなく、現実に行うものとして茶の湯を楽しむってことなんです。
それで次回は、「去有風的地方」で大麦が苦しんでるところから話を始めたいと思います。