茶の湯はなぜ「型」を習う?

TVドラマ「ばけばけ」のワンシーンで、「今は あの家に婿を迎え、働き手になってもらおうとしているわけじゃが」と字幕にあります。フィクションのドラマですから事実ではありませんが、昔の日本では嫁とか婿が「一個の人格」ではなく、「働き手」と認識されてたのは、それ、ほんとに事実で、そういう社会状況を私は体感として知っています。まあ、「人間」として「尊重されない」って、普通でした。
前回、前々回のブログで、ドラマ「去有風的地方」に登場する大麦と父の関係を書きましたが、父が娘の文筆業に反対する理由は、物書きでは「食っていけない」と、世の中でそんなふうに言われることもあって、表面上は「娘のためを思う親心」みたいに「見せかけてる」んですけど、実は隠された裏面があり、それは ・・・ 娘が収入困難に陥ったら、親として自分の出費で養わなければ世間の評判が落ちるし、自分の金銭を失う事態に陥るという怖れと怒りが実情だと勘繰るんですけど。
マア、そんなわけで、息子、娘を「思い通りに」仕立てようとする親によって、人として尊重されずに育ち、やがて心を病み、社会生活不能に陥る人だって、世の中には多いかと思いますね、アノ、自殺とか「親殺し事件」に発展しなければ、まだ穏やかな事態かな?
それで茶の湯というのは、「人を尊重する」、まずはその一事が大切で、「人を尊重する」って「自分を尊重する」ことと同じですからね、そのことを「行為を通して」行うのが茶の湯だと思います。
それで、大麦の父は学校の先生でして、娘が学校の先生になったら人生がうまくいくと思い込んでるみたいです。また、「ばけばけ」の松野家では、働き手としての婿を取ったら、働いてもらって借金を返し、松野家が立ち行くようになると考えてますね。
で、「学校の先生になる」は「働き手になる」よりも職業が具体化してますが、「働く」という点では同じで、働くことによって経済的に現状を望む方向にもっていこうとするものですが、茶の湯の場合、「目的」がですね、「人を尊重し、人と人との喜ばしい交流を実現する」ってことだと、私は思います。
それで、経済的に生活を成り立たせるために「働く」ことが必要であるように、茶の湯では「人を尊重し、喜ばしい交流」を実現するために、茶会を行うことが考案されたというのが私の考えです。
でも、「茶会を行う」ったって、人と人との関係ですからね、「どういう行為によって」目的が達せられるかが工夫され、茶会の流れという、一定の「型」ができてきたのかなあ ・・・ って、それ、あくまでも私の身勝手な考えにすぎません。