茶の湯 ― 一つの碗から皆で頂く

テレビを撮影した上の画面、女性は食欲がなく、料理を残すんですが、隣の男性が「もったいない」と理由をつけて、女性が残したのを頂きます。
さて、茶の湯の懐石には盃事がありまして、相手の人が飲んだその盃で、自分も酒を頂くってことをしますけど、その「同じ盃」ってことが重要でして、「同じ盃」だからこそ意味があるんですけど、それが、コロナウイルス感染対策ってことで、亭主が別盃を持ち出すようにせざるを得なくなりましたので、つまらなくなりましたね、その点では。
でも、今日書きたいことは、茶の湯で「同じ盃」で酒をいただいたり、「同じ茶碗」で茶を頂くのがうれしいってことなんです。
濃茶はもちろん「ひとつの」碗を順送りにして数人でいただきますけど、薄茶もですね、「おもやい」あるいは「おもあい」というやり方があって、一つの碗で二人がいただくんですが、そういうのを好まない、あるいは嫌う方もおいででして、もちろん私、そういう方を責めたりはしません。
アノ、私だって、忌避したい人や恐怖を感じる人の飲食物など、断じて分けてもらおうなんて思うわけがありませんで、それ以前に、いっしょに居ること自体を避けますね。ですから、他の人の碗で、あるいは盃で自分もいただく ・・・ っていうのは、その人に好意を持ってるってことで、その人に親しみを感じなければ、できないことですよネ。そして、茶の湯というのは、同じ碗、同じ盃でいただけることが喜びであるような、親密な関係において行われるものなんです。
それで、テレビ画面の話に戻りますが、その男性、隣の女性に好意を持ってる、あるいは親しみを感じてるからこそ、女性が食べきれなかった料理をもらうことができるわけで、私なんかもですね、みんなで一緒に食事する時、誰かが食べきれないほどの料理だった場合、その人が箸をつける前に「分けてくれる」場合があって、私は喜んでいただきます。あの、「箸をつけた後」であっても全く問題は無いんですが、自分が箸をつけたものを他人に譲るのは気が引けるってことで、実際に体験したことはありませんが、家族・親族なんかでしたら、箸をつけた料理だって、喜んで分けてもらう私です。
最後に、他人が食べきれなかった料理を頂く場面、そしてそれが「ごく自然に」、あたりまえのように ・・・ というより、いや、それがあたりまえって描き方をしてくれたドラマ作家、また、それを映像化してくれた監督や俳優に対して、よくそういうシーンを見せてくれましたと、私は感謝です。世の中、そのようにありたいと思います。