茶の湯 ― 圧迫感を感じる?

ふみ

上は、「風の吹く場所へ」というドラマのワンシーンで、左側の女性(白蔓君)が、右側に横顔だけちょこっと写ってる男性(胡有魚)に対して、「尊重される感覚を」って言う字幕が見えます。

 

・ ・ ・ で、茶の湯なんですけど、茶の湯は人を「尊重します」。

アノ、人を尊重しなかったら、そもそも茶の湯は成り立たないんです。

つまり、茶の湯は「作法」じゃなくって「気持ち」なんです。形式的に作法ができていても、気持が入ってなければ、茶の湯とはなりえません。

 

で、前回に続いて、夢野久作の文章から一部を引用します。

「頼うだ御方と、今一人の富豪と筆者と、三人歴行して自動車を降り、二月末の曇雲の下を藁葺のお寺じみた門に進むと、益田翁は黒い背広に宗匠頭巾庭穿靴でニコニコと出迎えた。先頭の頼うだ御方の背広に耄碌頭巾と調子を合わせたものであろう。まさかスパイ戦術を使ったものではあるまいがと感心した序に少々気味悪くもなった。

家は普通の百姓家を、モウ一つ凝って更に百姓家らしく造作したもの。縁側に木綿車と砧が置いて在る。庭はなくて、全部手入れの届いた野菜畑である。ホーレン草、キャベツなぞ。入口に架けた翁瓦の笑顔が主人公の益田男爵にソックリである。

土間は真中に新しい黒い藁灰を入れて巨大な堅炭が三角の井桁に重なり合ったまま起っている。煤けた天井からは勿論、真黒な自在鍵、周囲に縄や茣蓙張りの椅子なぞ。見まわせば見まわす程、どこまで凝ってあるかわからない。成る程と思わせずには置かない茶人の拷問道具ばかりらしい。」

 

ウーン、私は夢野久作が「拷問道具」と表現しているところに興味を持ちました。アノ、茶の湯に客を招待する亭主が、客の心を苦しめ、痛めつけようなんぞと、思うわけがありません。ただひたすら、お客様に喜んでいただきたい、和やかなひと時を楽しんでいただきたいと、その一心なのです。

 

でも、でも、夢野久作は茶室に入ったばかり、茶の湯が始まる前から、もう、設えを見ただけで、心が圧迫されてしまったんでしょうかね?

アア、どうしてそんなことが起こるんでしょう?

次回は、あてずっぽうですが、どうしてそんなふうになっちゃうのか、思いつくままに書いてみたいと思います。

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