天正15年、「吸い茶」の大茶会

ふみ

上の写真はTV放送を撮影したもので、白色の字幕には「中世というのは飢餓の時代」、赤色の字幕には「他人の物を奪わないと生き残れない時代」とあります。

アノ、室町時代の末期、つまり戦国時代はですね、領土を奪い合う戦乱が続きましたけど、明治時代に殖産興業の政策が行われる以前はですね、農業、あるいは資源採掘によって、人々が生きるのに必要な物資を生み出していたわけで、そうすると、農地(や資源産地)を獲得、あるいは支配することが最重要ってことになりますから、中央政権が脆弱、あるいは存在しない場合は、各地の有力者による覇権闘争が日常化するのが当然で、マア、戦国時代はその傾向が顕著だったってことでしょうか。

 

さて、歴史的には、天正19年に豊臣秀吉が、最後に残った奥羽も支配地域に組み入れ、ここに天下統一が成ったわけですが、下の写真は昭和38年でしょうか、ベンチャーズのレコード、「行け!行け!ドンドン」のジャケットです。ちなみにB面は「スキヤキ」で、つまり、坂本九の「上を向いて歩こう」です。

秀吉の快進撃は、天王山の戦い(山崎合戦)以降、特に勢いを増したように感じられまして、「行け!行け!ドンドン」って雰囲気だったかどうかはわかりませんけど、とにかく、昇竜の勢いかなァ?

 

前回、秀吉の親征による九州征伐について書きましたが、総勢20万人以上で、それを二つの軍に分け、肥後から攻める軍の総大将は秀吉、日向から攻める軍の総大将は豊臣秀長とし、先陣として、日向方面軍の宇喜田秀家が1月25日に出陣、2月10日には秀長、3月1日に至って秀吉自身が大坂城から出陣しています。ちなみに、昭和20年4月に始まった米軍の沖縄上陸作戦は兵員が18万でしたから、4百年以上前に秀吉が20万を超える軍を九州に送ったのはすごいと思います。

 

さて、九州に向かう秀吉軍を率いる大名を名簿から数えてみましたら、肥後方面軍は1番隊の毛利吉成から11番隊の豊臣秀勝まで26名、日向方面軍は1番隊の黒田官兵衛から5番隊の小早川秀秋まで9名、その他に、番外として長曾我部元親らまでを含む8名ですからね、天正15年正月3日、九州征伐陣立て関連大茶会に何人の大名が出席したのか私は調べてませんが、マアとにかく「大勢」ですよね。

・・・ それで、一人一人に「各服点て」で茶を振舞ってたのでは時間が足りなくなるのが当然で、だから「吸い茶」ってことにならざるをえなかったと想像しますけど、その話はまた、後日に書きたいと思います。

決起ブチ上ゲ茶の湯大会

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上の写真は、豊臣秀吉に関するテレビ番組のワンシーンで、「敵を味方にできる彼の能力が 多くの武将たちに知られた」とあります。もう一つの緑色の字幕には「美濃攻めで・・・」とあるように、美濃攻めの頃からそう認識されるようになったってことでしょうかネ。

 

イヤァ、すごい能力だと思います。スゴイです。アノ、敵を味方にするったって、相手を騙すわけじゃなく、誠心誠意、相手が危機を脱し、さらに、生き延びて利益を得るにはこんな方法があるんじゃないですかってことを説き、話に乗ってもらうとか、マァそんなのは私の勝手な想像ですけどネ、それができるためには、人の心を推し量る能力が必要で、たとえば戦国時代に盛んに行なわれた調略ってことだって、そういう才能、あるいは技能が無いと無理だろうって、私は思います。

 

アノ、秀吉は信長がピンチの時は身命を賭して助けますし、部下に対してはですね、信長と違って温情をかけますし、他人を喜ばせるためにはいろんなことをしますし、そして、ケチなことはしないようですね。金はジャンジャン使うし、また、気前がいいですから、マアそんなわけで、信長とは反対に、人気があったんじゃないでしょうか、想像ですけど。

さらにまた、自分がどんなにすばらしく、魅力的な人間かってことを人に見せつけることにも、非常に長けてたんじゃないかと思います。

 

で、今日は秀吉の茶会の一つ、天正十五年正月三日、大坂城での大茶会の話ですが、標題を「決起ブチ上ゲ茶の湯大会」としましたように、私にとってはビックリな茶会です。

アノ、すでに関白となっていた秀吉は、この大茶会の直前に太政大臣に任ぜられまして、秀吉としては大満足だったんじゃないかと想像します。

 

ところがところが、そういう秀吉をバカにする武将もいまして、たとえば島津義久ですが、秀吉が義久に手紙を送り、九州平定の戦をやめることが天皇の願いですから、そうしてくれるでしょうね(先敵味方共双方可相止弓箭旨、(闕字)叡慮候、可被得其意儀尤候)みたいに言ってやったんです。で、義久がどういう態度をとったかと言いますと、上井覚兼という人の日記に、「旧冬(前年の冬です。なお、旧暦は現在の太陽暦と違って季節が若干違い、旧暦の正月は季節的にもまさに「春」です。年賀状に「迎春」と書く人もいるわけです。)、羽柴殿(秀吉のことです)より書状到来候と書いてあるんですが、その他に、細川兵部太輔入道玄旨(細川幽斎のことです)と茶湯者宗易(千利休のことです)からの副状があったと書いてあります。この当時、利休は豊臣政権を支える重要人物でしたからネ。

それで、羽筑(秀吉のことです)は去年、関白に任じられたけれども、「羽柴ことはまことにまことに由来なき仁と世上沙汰候、当家のことは、頼朝已来愀変なき御家のことに候、しかるに羽柴へ関白殿噯いの返書は笑止のよしとも候、また右の如きゆえなき仁に関白を御免のこと、ただ(闕字)綸言の軽きにてこそ候へ」って書いてありまして、マア、そうですネエ、世の中では、秀吉は由緒も来歴もあやしい人物だという評価なのだから、源頼朝以来の名門である島津家がですね、秀吉を「関白殿」として返書するなど、ありえないことであり、秀吉のように怪しい人間を勅命で関白に任じるなんて、ずいぶんと軽々しい行為だ・・・っていうような感じでですね、要するに島津家は、自分のとここそ偉いんだと、秀吉をバカにしきってまして、秀吉に対する返書もですね、細川宛に出したようです。

 

ところで秀吉は、天正14年から島津征伐の軍を九州に送ってるんですけど、いよいよ自分も親征しようってことで、天正14年12月1日には、兵士30万人分の兵糧米、馬2万匹分の飼料を、1年分用意することを大名らに命じ、それを尼崎に輸送させ、天正15年の元日には、諸大名を大坂城に集め、年賀祝儀の席で九州征伐の軍令を発し、各大名の役割分担を行ったようです。

 

そして翌々日の正月3日、秀吉は九州征伐に参戦する大名を集め、大坂城で大茶会を行いますから、私はふざけて、今日のブログ標題を「決起ブチ上ゲ茶の湯大会」としました。

 

アノ、「茶会」とは言ってますけどね、「茶会」という名称ではあっても、本質は「パフォーマンス」の一種であって、私が好み、楽しむ「茶の湯」とは全く異質でして、どんなパフォーマンス大会だったかってことなど、次回以降に少しづつ。

茶の湯は仲がよい同士で

ふみ

 

上の写真は、江戸時代中期にできた舞踊「雛鶴三番叟」のテレビ画面を写したものです。

踊りの詞章の中に、次のような言葉があります。

「さてもよいよい よい仲同士は 天下泰平 国土安穏 今日の御祈祷なり」

 

それで、テレビの字幕なんですが、画面の下部に「仲がよいというのは 天下泰平」とあります。また、画面右端には縦書きで「今日の御祈祷なり」と表示されてます。

 

さて私は、仲が良いってことを心底念願してますし、そのようにありたいと思ってることです。

そして茶の湯というものは、仲が良いからこそできるものでありまして、ですから先人が、茶の湯というすばらしいものをつくってくれたことに対して、感謝でいっぱいです。

 

そんなわけで、「仲が良い」という基盤がまずあって、その基盤の上に成立するのが茶の湯だと、私は思ってるわけですが、茶の湯と深く関わり、また、ことあるごとに「吸い茶」方式にさせた豊臣秀吉は、「政治的目的」で茶の湯を利用したのであって、「仲がよい同士で交流を楽しむために」行ったのではないって、そこのところはキッチリと「分けて」、つまり、「茶の湯を通しての交友」と「茶の湯を政治利用する」ことでは、茶の湯がまるで異質のものになってしまうということは押さえておかなければならないポイントだと思うことです。

 

アノ、織田信長や豊臣秀吉の茶の湯は、「仲がよい同士で行う」ことでは全くありませんで、大げさに言えば「政治戦略」の一つとして茶の湯を使ったと、私はそう見てまして、次回は豊臣秀吉の吸い茶のことをほんのちょこっと。

大好きな人とするのが茶の湯

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上の写真は中国現代ドラマのラストシーンで、夜空に字幕が一文字ずつ表示されます。「時間不会停 幸福」というところまで字幕が進行してまして、その後は「不会止」と続くことになるんです。

つまり、「時間不会停 幸福不会止」ってことですが、翻訳すればマァ、「時間は停止しないし、幸福も止まることはありません」ってなことでしょうか。

字幕の途中で撮影しちゃいましたけど、それは、「不会止」という字幕が出る頃に、二人の顔がゆっくり離れてゆくシーンに移行するからです。

 

で、こういうシーン、二人がラブラブだからありうるのであって、アノ、左側の女性が、右側に写ってる男性を嫌悪してたら、絶対こんなことしません。彼女、右手を彼の肩に置いてますネ。

 

アノ、茶の湯だってそうなんです、お茶を差し上げるのは、まさに「敬愛してるから」なんです。

嫌悪する人とは、決して茶の湯なんかしません。

 

そこのところが大切というか、絶対条件であって、「いっしょに居ることを楽しむ」のが茶の湯ですからね、写真の二人はあんなふうにしてますが、お茶人は、「茶の湯」を通して、写真の二人のように気持ちを通わせるわけです。マア、写真の場合は男女カップルですが、茶の湯の場合は性別、人数を問いません・・・とは言いましても、人数のほうはお客が最大4人程度まで・・・ってのが「私は」限度かなあと感じるんですけどネ、「心が通いあう人」とともに「喜ばしいひとときを過ごす」ために、食事や酒、菓子、お茶を差し上げるわけです。

 

だからこそ、仲が良いからこそ、一つの碗から皆で茶を喫することも行われるわけでして、つまり、「すでによく知り合ってる」気が置けない仲間同士だから、それゆえ、「一つの碗」から共にいただけるわけだし、それがとっても喜びなんですけど、ですからネ、知らない人とか、ましてや嫌悪する人といっしょに一碗から共にいただくなんてことは、本来、ありえないことなんです。

 

アレアレ、でも、現実にはそうじゃない場面があるんじゃない? ・・・ってなことについては、また次回以降に。

同じ碗で茶をいただく嬉しさ

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上の写真は中国歴史ドラマのワンシーンで、右側がモンゴルの王女、左側に横顔だけちょこっと写ってるのは清国の王子です。字幕に「私も」とあるのは王女の言葉で、王女は王子に恋してるんです。それで、王子が革袋に口をつけて酒を飲んだ後、王女も彼といっしょの酒が飲みたいというので、それで「私も」と言って、彼から皮囊を受け取る場面でして、受け取った後、彼女は皮囊から直接酒を飲んでます。

で、皮囊を受け渡す瞬間ですが、動きが速いので、手も皮囊もブレて写ってしまいました。

それで、下の写真は、現在販売されてる皮囊の一例で、インターネットの画面です。昔の日本では酒を瓢に入れて腰に下げたりしてましたけど、ドラマのこのシーンは、今の地名で言う内モンゴルです。

 

さて、王子が飲んだその飲み口に自分の口をつけ、王子が飲んだ残りの酒を自分もいただくことに、王女は不衛生感など持つはずもありません。かえって「うれしいこと」なんですから。

 

それで次に、他人が飲んだお茶を、同じ碗から自分も飲む「吸い茶」ですけど、上記の王女と同じくですね、そうすることが「喜びである」ってことがありまして、そうですねえ、例えばどんな場合かといえば、その一例をあげてみたいと思いますが、他の人が飲んだお茶を同じ碗から自分も飲むのが「喜びだ」っていうのは「私個人の感覚です」ってことを、まず、お断りしておきます。


さて、6月30日のブログにですね、「豊臣秀長の茶頭だった曲音(養花曲庵)が、天正14年、郡山城下の屋敷に居た折、屋敷に秀長を迎え、山上宗二がスイ茶を差し上げた記録がある(以下省略)」ってなことを書いたんですが、その情況はですね、天正十四年九月二十八日未明、秀長は、秀吉の茶頭だった宗二を、曲音の屋敷に迎えたというんです。そしてその日の昼頃、松屋久政が招かれ、久政を客として宗二がまず薄茶を、次いで濃茶を振舞ったというのです。久政はその様子を、彼の「松屋会記」に記してまして、茶杓で四ツ五ツ、抹茶を茶碗に入れ、湯の量は一柄杓で、スイ茶にしたというようなことが書いてあるんですね。そして、「初口久政」と書かれてまして、最初に茶を喫したのは久政自身ってことですが、次に喫したのは誰なのか?・・・ってことはわかりません。でも、客は久政一人ですからネ、残りの濃茶は宗二か、あるいは、同席してた誰か(客でない人物)が喫したのかなあ・・・と推測するしか。

 

それで、現代でも一客一亭の場合、亭主は濃茶を二人分練り、亭主自身も相伴するってことがありまして、そういう体験は無いんですけど、稽古の場ではデスネ、一客一亭を想定するってことができますから、そうしますとですネ、もう、何と言ったらいいか、すごい喜びで私は、お客様お一人にお茶を差し上げ、亭主の自分がご相伴する、つまり、お客様が喫したお茶を自分も同じ碗から頂く、その喜悦って、すごいものがあります、私は・・・うれしいですね。

 

アノ、この場合、同じ碗から同じ茶をいただくのは「私」ですからネ、他の人に対して、同じ碗から喫することを強いるような場面では全くありませんね。「自分がそうしたい」から、お客様に差し上げたお茶を同じ茶碗でご相伴するわけで、嬉しさこの上ないんですけど、続きは次回に。